Take@管理人が、知ったかぶりのテレビ番組批評やとりとめもなく面白くもない日記などを書く、オタク臭さ全開のくどい不定期更新ページ(泣)
ドラ映画30周年ということで、鳴り物入りで公開された昨年の映画。
総監督の楠葉宏三が自らメガホンを取り、そしてリメイクものではなくオリジナルで行く、という気合の入れようで制作されたが、しかし、どこからともなく漂ってくる『海底鬼岩城』臭さ…(笑)
バトルフィッシュっぽい乗り物のせいか?
(ただ、オリジナル云々については、最近のドラ映画が、リメイク→オリジナル→リメイク→オリジナル→…という順で意図的に隔年構成してるからではあるのが)
可もなく不可もなく……という評価が一番合ってるんじゃないかと思う。
同じくオリジナルで、「うーん、いろいろとバランスが悪くて、ちょっと難があるんじゃないの、コレ」と思っていた『緑の巨人伝』では、前半のキー坊との交流とか地球がとにかく凄いことになっている後半とか、ある種の熱気みたいなものを感じられたのだけど、今回はバランスをとろうとして熱気が感じられない雰囲気がある。
昨年の予告の段階から思っていたことではあるが、中世ファンタジーものの要素を入れる必然があったのだろうか……というか、いい加減くどい。
一昨年の『緑の巨人伝』でも、植物星の姫様が出てきたし、頻繁に特権階級出てきてるところが。
そして、科学的・SF的にこじつける『ドラ』にあって、こじつける気もなく原理不明の不思議な力が作用して魔法とか伝説としか良いようのない事象が起こる、という要素が出てくる座りの悪さ。
クライマックスの伝説の剣登場とかラストの機能発動とか
これは、最近の子どもたちや親御さんは中世ファンタジーものが好みだというマーケティングの結果?
『のび太の恐竜2006』、『緑の巨人伝』と同じように、“のび太たちの日常に異世界物が入ってきて、日常の中で親しく交流するが、その後のび太たちの方が異世界に放り込まれる”というドラ映画テッパンのパターンを使っているのだけど…
のび太が親的な立場で実に自然と交流できていたピー助やキー坊と違って、今回のソフィア姫はのび太よりも年上・先輩格の雰囲気があるから、同じ目線で一緒に楽しむ、というのではなく接待的な雰囲気が感じられて、日常を謳歌する風景に“心底楽しそうだ”という徹底した雰囲気を感じられない気がした…
伏線の練り込みも甘い気がする。
例えば、テキオー灯のタイムリミットが迫っていてしずかちゃんにも危険が迫っていると緊迫感を盛り上げようとしているシーンでは、テキオー灯にタイムリミットがあるという設定を説明するのがその危機が起こる直前で、「こーゆーシーンが後にあるので、その手前に説明を入れときました」程度のテキトーさが感じられる…
…ただ、お子様向けということを重視すると、あまり凝った伏線に仕上げると、子どもたちに理解してもらえないかもしれない、という判断が働いて、できるだけ分かりやすい、出した伏線は直後に回収する(説明が必要なものは直前で説明する)、ぐらいの姿勢で意図的にこうしているのかもしれん。
クライマックスのバトルシーンも、メインタイトルで「大海戦」とか謳っておきながら、(子ども向けアニメだから描写をハードにできないとはいえ)さしたる戦闘の押し引きもなく、漫然と「戦ってます」的な雰囲気で話が進んでいくので結構拍子抜けなのだが、必要以下の描写にレベルを落としておかないと保護者受けが悪いという判断があって、わざと緊張感薄くしてるのかもしれん。
そうでないとプロデューサー以上の人たちに受け入れられないとか? 巨大プロジェクト化したアニメ映画はそこら辺の調整が難しそうだからなぁ…
年々、規制(たぶん)で表現のハードさとか緊張感・熱気が薄まっている映画ドラ…
今年の『新・鉄人兵団』は原作・旧映画が映画ドラ随一の緊迫感・ハードさを持っていた作品なので、リメイクでどこまでマイルドにされるのだろうか…
総監督の楠葉宏三が自らメガホンを取り、そしてリメイクものではなくオリジナルで行く、という気合の入れようで制作されたが、しかし、どこからともなく漂ってくる『海底鬼岩城』臭さ…(笑)
バトルフィッシュっぽい乗り物のせいか?
(ただ、オリジナル云々については、最近のドラ映画が、リメイク→オリジナル→リメイク→オリジナル→…という順で意図的に隔年構成してるからではあるのが)
可もなく不可もなく……という評価が一番合ってるんじゃないかと思う。
同じくオリジナルで、「うーん、いろいろとバランスが悪くて、ちょっと難があるんじゃないの、コレ」と思っていた『緑の巨人伝』では、前半のキー坊との交流とか地球がとにかく凄いことになっている後半とか、ある種の熱気みたいなものを感じられたのだけど、今回はバランスをとろうとして熱気が感じられない雰囲気がある。
昨年の予告の段階から思っていたことではあるが、中世ファンタジーものの要素を入れる必然があったのだろうか……というか、いい加減くどい。
一昨年の『緑の巨人伝』でも、植物星の姫様が出てきたし、頻繁に特権階級出てきてるところが。
そして、科学的・SF的にこじつける『ドラ』にあって、こじつける気もなく原理不明の不思議な力が作用して魔法とか伝説としか良いようのない事象が起こる、という要素が出てくる座りの悪さ。
クライマックスの伝説の剣登場とかラストの機能発動とか
これは、最近の子どもたちや親御さんは中世ファンタジーものが好みだというマーケティングの結果?
『のび太の恐竜2006』、『緑の巨人伝』と同じように、“のび太たちの日常に異世界物が入ってきて、日常の中で親しく交流するが、その後のび太たちの方が異世界に放り込まれる”というドラ映画テッパンのパターンを使っているのだけど…
のび太が親的な立場で実に自然と交流できていたピー助やキー坊と違って、今回のソフィア姫はのび太よりも年上・先輩格の雰囲気があるから、同じ目線で一緒に楽しむ、というのではなく接待的な雰囲気が感じられて、日常を謳歌する風景に“心底楽しそうだ”という徹底した雰囲気を感じられない気がした…
伏線の練り込みも甘い気がする。
例えば、テキオー灯のタイムリミットが迫っていてしずかちゃんにも危険が迫っていると緊迫感を盛り上げようとしているシーンでは、テキオー灯にタイムリミットがあるという設定を説明するのがその危機が起こる直前で、「こーゆーシーンが後にあるので、その手前に説明を入れときました」程度のテキトーさが感じられる…
…ただ、お子様向けということを重視すると、あまり凝った伏線に仕上げると、子どもたちに理解してもらえないかもしれない、という判断が働いて、できるだけ分かりやすい、出した伏線は直後に回収する(説明が必要なものは直前で説明する)、ぐらいの姿勢で意図的にこうしているのかもしれん。
クライマックスのバトルシーンも、メインタイトルで「大海戦」とか謳っておきながら、(子ども向けアニメだから描写をハードにできないとはいえ)さしたる戦闘の押し引きもなく、漫然と「戦ってます」的な雰囲気で話が進んでいくので結構拍子抜けなのだが、必要以下の描写にレベルを落としておかないと保護者受けが悪いという判断があって、わざと緊張感薄くしてるのかもしれん。
そうでないとプロデューサー以上の人たちに受け入れられないとか? 巨大プロジェクト化したアニメ映画はそこら辺の調整が難しそうだからなぁ…
年々、規制(たぶん)で表現のハードさとか緊張感・熱気が薄まっている映画ドラ…
今年の『新・鉄人兵団』は原作・旧映画が映画ドラ随一の緊迫感・ハードさを持っていた作品なので、リメイクでどこまでマイルドにされるのだろうか…
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