Take@管理人が、知ったかぶりのテレビ番組批評やとりとめもなく面白くもない日記などを書く、オタク臭さ全開のくどい不定期更新ページ(泣)
(書きかけ)
大阪は東京ネットから一週遅れなので、次の週の話のあらすじをネット感想見て知ってたりするので、実質的な最終回の今回の酷評されっぷりは大体把握してた。
「ラストの展開の意味が分からない」「安直なハッピーエンド」「この作品は何を描きたかった作品なの?」などの意見が多くて、相当残念な出来だったことは想像つくので、そういう事態になってしまった原因を考えてみたり、擁護的な考えを巡らせてみたりしたのだけれど、実際に見てみないことには何とも言えない。
で、実際に見てみたわけだけど…
奇跡が起こって、どうしようもない状況が劇的に改善されて一気にハッピーエンドになる、という結末の付け方は別に悪いことではないと思ってる。
「奇跡は起こらないから奇跡って言う」ということもあるが、フィクションのエンタメなんだし、絶望を抱えたまま後味悪く終わるよりは、どんな方法であってもハッピーエンドになる方が心地いいし、趣味の時間をこの作品に割いてきた甲斐もあるというもの。
特に、ハッピーエンドがお似合いの、穏やかな日常生活を延々と描いてきたこの作品では。
だから、「奇跡が起こってハッピーエンドになるなんて安直な展開は、見るに堪えない」という大勢の意見は、少なくとも私にはそこまでのマイナス要因とは見えないハズ。
「奇跡で全部解決ってオチじゃ、今までの鬱描写とかの意味がなくなってしまって、何のテーマを描きたかった分からない」という批判もどーんと来い!
・・・という気持ちで見てみたのだけど……………うん、ダメだこりゃ。
問題は、「(このアニメが)何を描きたかったのが分からない」からではなく、「(今回の話が)何を描いているのかが分からない」こと、そのシナリオ演出にあるぞ。
原作ゲームでは確か、街に住む人々の思いが形になった光の球を集めることで願いが叶う話があって、そこに平行世界論が関係して、「奇跡が起こって死んだ人間が救われた」というオチになる(ハズ)なのに、奇跡が起こったかどうか、その時点からして分からないんだもの…
そして、その奇跡とやらが、どこにどう作用しているのかが全然把握できない、というのも白けさせる原因。
奇跡で渚の命ひとつが死から引き戻されたのか、いやそもそもの虚弱体質が改善された結果なのか、それとも世界からして本来の結末とは違う別の歴史が生み出されたのか、ただ単に話の視点だけが平行世界に飛んだのか…
(ついでに、その奇跡は汐の死にも作用するのかね?)
それがないから、渚生存エンドで朋也たちがようやくハッピーな生活を手に入れられたというご褒美映像を見せられても、「私が今見ている幸せそうに生きているな渚たちの姿は一体何?」という感想がまず頭に浮かんで、ご褒美映像かどうかさえ判断つかないということになる。
これをゲームでやってたら、「うわーなんで、死んじゃうんだー!!」とバッドエンドを見てしまい、しこたまヘコんだ後でタイトル画面を見たら、「おまけ」とか「新セーブデータ」とか何とか今までなかったアイコンとかが出てきて、「おや、これは何だろう?」と押してみると、「やったー、ハッピーエンドのルートが見れるようになっているぞー!」という感じにでもなっているだろうから、分かりやすいんだろうが。
アニメとして分かりやすくするなら…
二人の出会いがもう一度やり直されるシーンは、前後の場面から見て、冥界かどっかでの幻想のやりとりだと解釈するとして(汗)
せめて、渚が死ぬはずだったあのシーンでは、渚が死んでみんなが悲しみに暮れているところに光の球が渚の身体に落ちてきて(いや、光の球がそういうシステムかは知らないけど)、渚が死から蘇って、一転みんなが喜びの表情になり、こうして本来とは別のルートになりました、と示すぐらい分かりやすく、奇跡をあざとく見せてくれないと…
大阪は東京ネットから一週遅れなので、次の週の話のあらすじをネット感想見て知ってたりするので、実質的な最終回の今回の酷評されっぷりは大体把握してた。
「ラストの展開の意味が分からない」「安直なハッピーエンド」「この作品は何を描きたかった作品なの?」などの意見が多くて、相当残念な出来だったことは想像つくので、そういう事態になってしまった原因を考えてみたり、擁護的な考えを巡らせてみたりしたのだけれど、実際に見てみないことには何とも言えない。
で、実際に見てみたわけだけど…
奇跡が起こって、どうしようもない状況が劇的に改善されて一気にハッピーエンドになる、という結末の付け方は別に悪いことではないと思ってる。
「奇跡は起こらないから奇跡って言う」ということもあるが、フィクションのエンタメなんだし、絶望を抱えたまま後味悪く終わるよりは、どんな方法であってもハッピーエンドになる方が心地いいし、趣味の時間をこの作品に割いてきた甲斐もあるというもの。
特に、ハッピーエンドがお似合いの、穏やかな日常生活を延々と描いてきたこの作品では。
だから、「奇跡が起こってハッピーエンドになるなんて安直な展開は、見るに堪えない」という大勢の意見は、少なくとも私にはそこまでのマイナス要因とは見えないハズ。
「奇跡で全部解決ってオチじゃ、今までの鬱描写とかの意味がなくなってしまって、何のテーマを描きたかった分からない」という批判もどーんと来い!
・・・という気持ちで見てみたのだけど……………うん、ダメだこりゃ。
問題は、「(このアニメが)何を描きたかったのが分からない」からではなく、「(今回の話が)何を描いているのかが分からない」こと、そのシナリオ演出にあるぞ。
原作ゲームでは確か、街に住む人々の思いが形になった光の球を集めることで願いが叶う話があって、そこに平行世界論が関係して、「奇跡が起こって死んだ人間が救われた」というオチになる(ハズ)なのに、奇跡が起こったかどうか、その時点からして分からないんだもの…
そして、その奇跡とやらが、どこにどう作用しているのかが全然把握できない、というのも白けさせる原因。
奇跡で渚の命ひとつが死から引き戻されたのか、いやそもそもの虚弱体質が改善された結果なのか、それとも世界からして本来の結末とは違う別の歴史が生み出されたのか、ただ単に話の視点だけが平行世界に飛んだのか…
(ついでに、その奇跡は汐の死にも作用するのかね?)
それがないから、渚生存エンドで朋也たちがようやくハッピーな生活を手に入れられたというご褒美映像を見せられても、「私が今見ている幸せそうに生きているな渚たちの姿は一体何?」という感想がまず頭に浮かんで、ご褒美映像かどうかさえ判断つかないということになる。
これをゲームでやってたら、「うわーなんで、死んじゃうんだー!!」とバッドエンドを見てしまい、しこたまヘコんだ後でタイトル画面を見たら、「おまけ」とか「新セーブデータ」とか何とか今までなかったアイコンとかが出てきて、「おや、これは何だろう?」と押してみると、「やったー、ハッピーエンドのルートが見れるようになっているぞー!」という感じにでもなっているだろうから、分かりやすいんだろうが。
アニメとして分かりやすくするなら…
二人の出会いがもう一度やり直されるシーンは、前後の場面から見て、冥界かどっかでの幻想のやりとりだと解釈するとして(汗)
せめて、渚が死ぬはずだったあのシーンでは、渚が死んでみんなが悲しみに暮れているところに光の球が渚の身体に落ちてきて(いや、光の球がそういうシステムかは知らないけど)、渚が死から蘇って、一転みんなが喜びの表情になり、こうして本来とは別のルートになりました、と示すぐらい分かりやすく、奇跡をあざとく見せてくれないと…
PR
この記事にコメントする
京都の「いちげんさん、おことわり」精神
儂がアニメ版に期待したのもまさにその点やったんやけど…やっぱ、原作(ゲーム)の流れをそのままなぞろうとしかしてない(そして、それすらもできてない)京アニ(藁)の仕事でしたね。
儂ならどーしたかっつーたら(以下、原稿用紙20枚・絵コンテ50枚
…奇跡が何なのか?
「世界の果て」を見てくりゃわかるよwww
儂ならどーしたかっつーたら(以下、原稿用紙20枚・絵コンテ50枚
…奇跡が何なのか?
「世界の果て」を見てくりゃわかるよwww