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Take@管理人が、知ったかぶりのテレビ番組批評やとりとめもなく面白くもない日記などを書く、オタク臭さ全開のくどい不定期更新ページ(泣)
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 積極的に見る気は無かったのだけど、家に帰ってきて親が見ていた番組がCMに入ったときに様子を見てみようとチャンネル変えて、そのままラストまで見てしまったという…
 くそっ! 大好きなカラオケボックスシーンを見るには、帰ってくるのが遅すぎた!
 
 スポンサーや製作サイド等々、特に後ろ盾がなさげな、それもアニメ映画なのに、こうして晴れて天下のフジテレビで2度目の地上波放送と相成ったのはちょっとした驚き。
 ひょっとしてフジは、繰り返し放送することでこの映画を、日テレのジブリのように成長させようとしてるのか!?
 おお、お目が高い!!

 …と思ったら、直後に放送される『ハチワンダイバー』のための、単なる前座でした。
 嗚呼、所詮は後ろ盾のないアニメ映画…
 (…とは言い切れんけどね、2時間もゴールデンの枠を貰ってる訳だし)


 途中から見たので、やっぱり作品の面白さが激減してしまったような感じだった。
 前半に出てきた描写を後半で伏線として機能させているからこその面白さがこの作品のキモなんだから、その大事な前半部分を見逃していては、以前見た記憶を頼りにするだけじゃ、何か物足りない。
 そういう意味では、この映画は真に映画的なんだなぁ~
 劇場の椅子に縛り付けられてスクリーンから目を背ける自由を与えられないからこそ得られる感動があるのだもの。
 基本的には日常生活を営んでいる合間に見るテレビでは、受験勉強に追われる学校風景を映すシーンであったり、千昭が時を止めた世界で歩き回るシーンであったり、千昭のいるグラウンドに向かう真琴の疾走シーンであったり、がああいう無音に近くてリリックな場面は、単なる環境ビデオにしか見えなくて、見ていてタルいと感じられてしまうけど、スクリーンに出てくるものしか注目できない映画館では、かなり重い意味を持った体験として私らの目に映るんだわ。

 そう考えると、さっき比較に出した宮崎駿作品って、テレビと映画という放映形態の違いを考える上では、奇跡のバランスの上に成り立っているんだなぁ、って思う。
 多くの論者が指摘しているように、宮崎作品のシナリオ構成って結構矛盾が多くて“甘い”作りになっているんだけど(っていうか、殆どの作品で、制作を始めた段階で話が半分しかできていないという時点で、何か察しなくては^^;)、しかし、それはテレビで放送するに当たっては、映画を頭から見ていないとその後の展開が理解不能になるということではなく、割とエピソードが細切れになっているので、どの瞬間から見始めても大丈夫な感じになっていて、好都合な部分が多いということ。
 しかし、テレビじゃあの豪快かつ繊細な作画力の勢いを堪能することはできず、劇場で見ないと意味がないと言えるレベルであり、その意味では実に映画的である。
 いち映画作品として高品質であり、なおかつ大衆に知らしめるのに適した構造になっていて、ここら辺が奇跡のバランスといえる所以。

 『時かけ』は、近頃のアニメ映画……いや、邦画の中でも珍しく、思いっきり映画的なバランスに仕上がっているので、そこら辺が難で注目を集めるのに損かもなぁ、と。

 「時間を遡ってやり直せたら…」というのは誰しもが望む夢想であり、その夢想をタイムリープというアイデアとして作品の中で実現してしまうのが『時かけ』を魅力にしている要素だけど、映画というものを「夢を夢として叶えるもの」とするならば、この作品は、齢を食った人間の「青春時代っていいなぁ、戻れたらなぁ」という夢想を、作品の概要それ自体が形にしているという側面もあり、その意味でも映画的だったりするなぁ……とか考えた。


 親は去年の放送でこの映画を一度見ているのだけど、こういうドラマ的なものについての記憶力が全然なくて、1時間前に見たドラマをもう一度見るときでも「アレ? この後どういう展開になるんだっけ?」と訊いてくるぐらいのドラマ健忘症(笑)
 ところが、この映画のラストのことだけは覚えていて、真琴が千昭を画面から押し出そうとしている場面で、「ここ覚えてる! この男の子、この後戻ってくるんやなぁ?」と珍しく正常な記憶力を発揮していた…
 …のだけれど、それを聞いた私は、「いや、戻ってこなくて、女の子泣くやん」と、さも親の方が間違いであるかのように細かい間違いを意地悪く指摘してしまった(汗)
 シークエンスの大枠としては、親の方も何も間違っちゃいないわけだけど、でも、あそこで一旦千昭の姿がなくなってしまうというその意味は結構大事だと思ったりしているわけですよ、私は。

 タイムリープ能力を利用したことで発生した数々の負の要素を解消したり元に戻したりして、最後に残った懸案事項である、真琴は何より観客も待ち望んだ千昭の告白イベントの回復。
 しかしそれは叶わず、結果として時間を弄んだ代償として真琴が受けるちょっとした因果応報の罰となってしまう(真琴の横を通り過ぎるカップルの自転車が分かりやすい象徴)
 そこで終わっても作品のテーマ的にはまとめられる(=映画が終わることができる)んだけど、最後の最後になって千昭が戻ってきて施される、回復とは言えないけれど、真琴に対して千昭の気持ちの前進を示して上げるという救い。
 「リアリティがないと夢は語れない」という鉄則と、「夢を夢として叶える」という映画としての役割の、両方を果たして終わるのは、この映画が持つ作品的なバランスが見えたりする部分だなぁ~、と。



 作品の作り的に敷居が高めだから、敬遠していた部分もあったんだけど、何だかんだで私もまだ語れるなぁ、この作品。

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