つい先日、大学の博物館実習で美術館に寄せてもらい、講義の一環として「彫刻磨き」に参加して、直に彫刻に触れまくるという貴重な体験をした。
あまり彫刻には興味はない私ではあるが、実際に間近で見て触ってみると結構良いモンである。
筋肉隆々とした男神像の表面を触った時のあの凹凸の感じの重量感は何とも言えん。
あと、表面をツルツルに仕上げた彫刻とか、鰐肌みたいに小さな突起だらけの彫刻とか、作家が指で練りこんだ跡が残る彫刻とか、彫刻の個性がそれぞれに出てたのも面白かったなァ。
そんなワケで、漫研でジャコメッティ展鑑賞の話が出た時に、手を挙げた私であった。
ちなみにこの時点では、“彫刻展”という情報以外のことは、ジャコメッティが如何様な人物であるかも知らなかったというテイタラクである。
美術館に行く前にちょこっと調べて知ったのは、ジャコメッティは一時期絵画を勉強していて、彫刻転向後はキュビスムやシュールレアリスムの影響を受け、細長く引き延ばされた人体彫刻を制作するようになった、ということぐらい。
…って、細長く引き延ばされた人物彫刻―
うむ、個人的には、写実系でない先鋭芸術の類は好きじゃない、というか苦手なんだけれども…
嗚呼…、展覧会と聞いて反射的に手ェ挙げるんじゃなかった…
しかしまぁ、ちゃんと人の形をしたものを作っている分、ヘンリー・ムーアよりはまだ理解できるかもしれん。
そんな不適合な態度で美術館までノコノコやってきた。
この日はちょうど講座があって、それにも足を運んだ。
内心、ラッキーだったと思っている。
何も知らないままで展示室に突っ込んでいくよりも、話を聞いて作家性を少しでも理解した上で鑑賞に臨んだ方が有意義な気がするからだ。
何よりタダだ。見ない手はない。
いやまぁ、真っ白けの状態で見ても、作家性を理解していれば絶対出てこないような思いもよらない感想が出てきたりして、それはそれで面白いとは思うが。
講座で分かったこと。
ジャコメッティはとにかく、人間の目で見えるものを形にしようとしていた、ということは飲み込めた。
「人間の全身と頭の比率はこんなんで、腕の長さはこんなもん、ここの部分は骨格に対して筋肉がこう付いている」みたいな確立された知識に基づいてデッサンをきちんと整えた、謂わば数値化された「型通りの写実」ではなく、近くにあるものは大きく、遠くにあるものは小さく見えてしまう人間の目のパース的な特性を考慮した作品作りを心がけていた、というのがジャコメッティというわけですな。
…って、この理解で本当に合ってんのか?
で、実際に彫刻をみた感想。
何と言うか………ぺらい。
彫刻のクセに厚みがないというか。
見に行っといて随分な暴言だとは思うが、しかしそれが率直な第一印象。
顔の正面のレリーフ作って、その後から背面もくっつけてみました、みたいな「板」のような感じの作品ばかり。
実際に一点、板二枚張り合わせた際にできる切れ目が像の側面中央にできてたのもあったし。
一時期キュビスムに傾倒していた割には平面的な彫刻をお作りになるようで。
ん? というか、キュビスムの影響を受けていたからこそ平面的なのか…?
顔に興味があったんだろうな、とカンバスやラフスケッチ等の顔の書き込み量を見て思った。
その証拠に、彫刻は顔以外の、例えば背中の部分とかは、粘土の塊そのままくっつけたような投げやりぶりだし。
でも、そのデコボコ感に何とも言えない重量感があって、彫刻としてこれはこれでいいかも。
また、人間の視線に基づいて作るというスタンスならば、人間が他の人間を見るときに自然と注目してしまうのは表情というか顔だから、そうした心理的な視線要因も考慮に入れているのかも。
先述の美術館でも、庭園の入り口にやたらぺらい裸婦の彫刻作品が飾ってあって、彫刻磨きボランティアの人が説明するに、この作者が最も美しいものだと考えているのは、正面から見た女性の体、そして背後から見た女性の体で、人体の横の厚みは大して重要ではないと考えているので、薄っぺらい彫刻に仕上がっているのだ、ということらしい。
ジャコメッティの作品もそれと同じ臭いが感じられる気がするのは気のせいでしょうか?
作品に触れていたら、こうした先鋭的な芸術は科学技術の向上によって発生し派生していく、という何かの論考を思い出した。
中世あたりでは、美術(Art)と技術(Craft)には明確な線引きは存在していなかった。絵描きとペンキ塗り、彫刻家と工芸品制作者、建築設計士と大工、いずれも芸術家とかサラリーマンとかいう分類で見られていたわけではなく、世の中すべての仕事持ちが依頼を受けて作品を作る職人であったわけだ。
それが言語的な定義の要求により、美術と技術は明確に区分されるようになる。
ところがそうして概念的に分離された美術は、産業革命以後の技術側の急速な進歩によってその特性を脅かされることになる。
視覚の記録装置としての役割を果たしてきた絵画は、描画を化学的・光学的な方法で自動的に済ませ、しかも鮮明に記録してしまう写真の登場により、存在意義を揺るがされる。(写真が発明された当時は、絵画も宗教画から王侯貴族の肖像画がメインになっていた時期であり、写真発明以後しばらくは肖像を目的としたものが多く撮られていたことを考えると、余計に役割がかぶっていたことも一因と言える)
工場制機械工業の発達は、美的デザインの取り入れにより、芸術家の彫刻でさえも大量に複製しえる技術を手に入れ、唯一無二の創造の希少性が価値を体系付けていた彫刻を脅かす。
技術によって芸術の現実的な存在意義が失われていく時代が近代であった。
その流れに抗う術は、技術だけでは不可能な領域を開拓し新たな付加価値を芸術に与えることであった。
例えば、現実の風景をそっくりそのまま鮮明に記録する写真に対して、「写真で三次元を“表現”することはできまい」と展開して見せたキュビスムであったり、「現実をそのまま写すだけが能じゃない」とばかりに図形的に絵を表現した抽象絵画であったり、また工場制大量生産技術に対抗するのは、「工場製品では時間を表現することはできまい」として固定された彫刻に四次元的な要素を与えた未来派であったり。
ジャコメッティもそうした時代の意識を引き継ぐ形で、視覚を純正化させてみせた芸術家なのかなァ、と少し思った。
素直に「面白いっ!」と思える映画を久々観た気がする。
時間軸が複雑に交錯する複雑なプロットを主人公中心の視点によって単純明快なストーリーに仕上げて見せた手腕が素晴らしい。
見かけが単純なのに、充填されている意味は濃厚。このバランスが鑑賞していて心地良かったんだろうな。
途中の破滅的な運命を解消させるどんでん返しのアイディアも、どことなく無理があるながら、分かりやすい割にハッとする解決策を提示していて面白い。
そしてSFで物語をかき回してた後で、最後にラブロマンスという無難なところに落ち着ける抜け目の無さ。
作画や絵作りも良い感じに印象的でしたよ。
あと、タメを効果的に使ってくれるのも嬉しかったわ。
…でも、これだけ褒め称えておいて、後年まで語るであろうマイフェイバリットな細田作品はたぶん『ウォーゲーム』(笑)
『時かけ』はバランスの良いのがアダになってフェイバリットリストから流れそう(汗)
本感想はまた別に。
短い感想:
ああ、ゴジオタには堪らんね!(←短ッ
そういうわけで(どういうわけで?)
■WEBアニメスタイル_特別企画「『時をかける少女』応援企画」
http://www.style.fm/as/13_special/13_tokikake_main.shtml
予習~
でも公開前から絵コンテ載せるって、ココは一体どういう体制?
まぁ、有難いことには変わりないんですけど↓
http://www.style.fm/as/02_topics/top_060714_a.shtml
前回の続き
『FANTASSICA』に参加させていただくにあたって、どういう原稿を書こうかと考えた際に、「大航海時代」という新カテゴリーに着目。
これで何か一つ話を考えようと思ったのですが、大層な設定を活かすとなると長さが膨大になるのは必至。そんな編集力の無さがTakeクオリティ(泣)
ここで発想を逆転させて、逆にこじんまりした話にしようと思い立ったわけです。例えば山の中で遊ぶ子どもの一日を描く話とか。ドラえもんマニアとしてはそんな日常コメディを思いつくなんざ造作もなく(笑)
ここに敵役のモンスターを配して物語の流れを作ろうとしたことで、「小さな村の一日」の雛形が生まれたのですが…
続きはまた今度。
前回の続き。
クリルは「小さな村の一日」のストーリーの中で機能するように、性格などをデザインしたキャラクターです。
その機能というのは、「オーガが片思いをして、気に入られるために行動することで、物語が動き出す、その契機の存在」というもの。
で、もうちょっと具体的にオーガの行動理由は考えた際に、「落ち込んでいる娘を元気付けようとする」というシチュエーションを当てはめる、と決めたのです。
だから本編でのクリルのアイデンティティの重要な部分、というか唯一の点というのは、「落ち込んでいる状態であること」というわけで、本編でもその設定でずっと通っています。
イラストでもニコニコさせないことは、キャラ設定の同一性を保つために必要なことだったわけです。当たり前ですな。
んで、クリルマスコット化計画に傾倒しすぎてキャラ設定を忘れてたのは作者のみという…(泣
アマチュアの漫画屋が自分の作品についてテーマや意図などをあれこれ語ったりするのは、誰にも笑ってもらえなかったギャグを放った直後に「え~っと、今の笑いどころはですね……」と自分で説明入れてるみたいで、とても恥ずかしいことではあるのだけど、このホームページ自体がそんな感じの恥知らずな運営方針を掲げているし、何を今更という感もあるので、以下、思いついたことをやってみる。
今日はよく晴れた!
長々と雨の日が続いたせいで、溜まりに溜まった洗濯物がようやく処理できる。
この日のために買っておいた新しい洗剤もようやく封を開けられるし。
大学に行く前に、洗濯機回して気持ちよく干していくか…
と思っていたのだが……
洗濯終了。
衣類その他で満杯の洗濯槽を早く空にしてしまおうと、ハンガーに手を伸ばしたのですが、ハンガー同士が絡み合っていていて、なかなか取れない。
不精な私ですから、両手を使おうとしないで、片手で外してしまおうとハンガーを前後に揺さぶってみました。
ゴトンっ!
………。
えーっとぉ…
洗濯機棚の上の方に置いておいた洗剤の箱が、ハンガーに当たって、
今洗濯し終えたばかりの洗濯槽に真っ逆さまにダイブ・イン。
洗った服を何一つ取り出しちゃいないのに、洗濯槽の中は一面白銀の世界に早変わり~
....._| ̄|○|i|i|
…おい。
しかもその洗剤、新品だぞ!
出した早々、全部が水分吸って使い物にならなくなってしまった…
いや、積もった分の洗剤掻き出して、もう一度洗い直せば、洗剤も洗濯物も何とかなるんだろうけれど、
大学に行かなければならないので、洗剤処理したりリトライしてる時間が…
……な、なぜこんな「泣き面に蜂」のような展開に…(泣
「ドラえもん」に真保マジック…人気作家が「新魔界大冒険」脚本
来春公開の映画「映画ドラえもん のび太の新魔界大冒険 7人の魔法使い」(寺本幸代監督)の脚本を、人気小説家の真保裕一氏(45)が手掛けることが11日、分かった。
映画化された「ホワイトアウト」をはじめ「連鎖」「奪取」などベストセラー小説を連発している真保氏は、熱烈なドラえもんファン。アニメ制作に携わりたいと、同作を手掛ける「シンエイ動画」に入社した経歴を持つ。その後、作家への道を進んだが、現在も同社のチームで草野球を楽しんでおり、関係者とは交流が続いていた。
今作は1984年に藤子・F・不二雄氏が執筆した「のび太の魔界大冒険」が原作。“もしもボックス”で現実の世界を魔法の世界に変えたのび太たちが、地球の危機に立ち向かう。脚本は原作にはなかった現実世界と魔界世界のリンクが描かれるなど“真保テイスト”が満載だという。
ドラえもん史上初の女性監督となる寺本幸代監督(30)は「『魔界大冒険』は特に好きな作品ですが、脚本はさらにパワーアップしています」。原作に新たな命を吹き込んだ真保氏は「今は小説なんぞ書いている身だが、こうして夢のひとつがかない、誰より興奮している自分がいる」と喜んでいる。
(スポーツ報知)7月12日
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なんか、ハリポタ以降のファンタジーブームに相乗りするズルさを感じるのは気のせいだろうか?
個人的には、質の低いオリジナル映画を連発されるぐらいなら、過去の映画を延々とリメイクしててくれ、と思っているタチなので、リメイク映画が来るのには大賛成なんだけど、商業ベースで旧作リメイクを続けるにはマーケティングにズレが出たり商品価値の新鮮さから出る旨味がなかったりして、製作側からストップかかっちゃうんだろうなぁ…とは思っていたけど、予想以上に順番が飛んだなぁ~
アレンジされまくることには、かなりの不安を覚えているけど、芯がしっかりしてれば最悪「駄作」ランクは避けられるのかな?
これに関連して、来週、新ドラミちゃんがようやく登場。
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