前回はデンスケとオヤジにハマっとった私ですが…
いかん、今回はオババが良過ぎる!
お金の単位は「円」ではなく「万円」で統一、窓から登場ジャジャジャジャーン、秘密工具場の起動スイッチは仏壇チーン、華麗なるキーボード捌き、1オクターブ高く「アタシは0番よ」、侵入者には便器の上から目からビーム、極め付けは「ひっひっひ、悪ィ子はいねェかー」と敵を雲霧消散させる無敵の大行進を見せつけて次回に続く…
ヤバイ、萌える!(笑)
それはさておき、音楽がアレだから、やッたら『となりのトトロ』に見えて仕様がない。
っていうか、キョウコを縁側で走り回らせて、変なモジャモジャな生き物もどきと遊ばせた時点で、半分ぐらい意図的にやってるだろう。ヤサコのセリフもやたら「~だわ」という所謂“女の子語尾”を強調していて、それっぽいし。
そして、新アイテムが完成したら大山のぶ代宜しく「電脳虫下し~」とアナウンスして、『ドラえもん』とのリンク貼りも忘れない。
前半のサッチーとの追っかけっこ見てたら、「昔の遊びをバーチャルなテレビゲーム風に仕上げて再現してみました」っていうこの作品のコンセプトが見えたような気がした。それは結構面白い。
ただ、データ上での生き物であるはずの“まっくろくろすけ”もどき(笑)のビームを受けた生身のキョウコの腕がバグったのはどういう了見だ?
ひょっとしてこの作品の世界観って、日常と電脳空間がごっちゃになった未来世界ではなくて、この世界自体が人間すらもデータ化してしまったコンピューター上のシミュレーション世界だとかいう、『マトリックス』かはたまた『ゼーガペイン』と言いたくなるSFワールドなのか?(事前情報全く入れてないので分かりませんがな)
だとすると、前回から感じてる設定の説明不足感は、後半に何かSF作品的なサプライズ演出をやらかすための意図的な前フリだったりするのだろうか…?
でも、私としては、そんなモロなSF感はこの作品に求めてないんだけどなぁ…
今年も、PTA調査による「子どもに見せたくない番組ランキング」で『クレヨンしんちゃん』が堂々のTOP10入りを果たした(3位)
反モラルが売りの『クレしん』にしてみれば、この手のランキングに顔を出すのは、むしろ勲章みたいなモンだけど、ただねぇ……
…長年いい年しながら観続けてる身としては、『クレしん』をこれにランクインさせるのはお門違いになってきてると思うんだよなぁ~
そりゃ「見せたくない番組」に吊るし上げられ始めた頃は、下半身の露出は多いは、子どもが親を小バカにするは、げんこつ等の幼児虐待は多いは、と、その汚名に違わぬ暴れっぷりを発揮していたけれど、今となっては、そんなインモラルな要素なんてほとんど排除されていて、すっかり毒が抜けた「ファミリー向けアニメ」になっているのだから。
毒のほとんどを生成していた主役のしんのすけ自身が、今は下ネタも程々に、ただのギャグメイカーにクラスチェンジしてることが何よりの証左でしょうて。
むしろ「親子で布団干しをドタバタしながらやっていたら、疲れてその温かい布団の上で親子揃って寝ちゃった」みたいな微笑ましいエピソードとか、ひたすらオヤジギャグで攻めてオチは投げっ放しの純粋コメディとか、そんな箸にも棒にもならんような、「別に子どもに見せても悪影響ないんじゃないの?」と言いたい話の方が多いし。
それでも何でランクインしてるんだろうか、と考えると、やっぱり投票している皆さんが、今の状態を観ずにイメージだけで判断してるからなんでしょうね。見せたくない、って言ってるのに、「それでも観てます」みたいな批評精神バリバリのテレビっ子な親御さんもいないだろうし。
だから今となっては、 『クレしん』が存在し続けてる、という事実自体が許しがたいんでしょうな。
でも、そういった投票者について「実情をよく見やがれ!」と批判する気が私にはあまりなかったりします。
なぜかというと、他のランクイン番組については、私もよく観てもいないくせに「まぁ、見せたくないと言われても仕方ないんじゃないのー」と一方的に思ってるからだったり(汗)
『ロンドンハーツ』は、「The Bl@ck M@il」みたいに無関係な一般人を些細な理由を大義にして盛大な不意打ちを食らわせる(ように見せていた)理不尽なコーナーばかりやってた方針から、身内である芸能人を打ち合わせの上でネタに使うややマイルドな方向にシフトしたけれど、女同士で罵倒合戦する醜態晒してるだけで、あんまり面白くないのが、これは悪影響しか残さないだろうなー、と感じさせられるので、結局ダメだと思う。
『14才の母』は観てないけれど、「未適齢期の少女が妊娠する」ということをテーマにして、そこから社会に訴えかけるようなドラマを展開していくんだろうなー、ということが予想されるけれど、親御さんにとってはその肝心の核となるテーマ自体がダメなんでしょーねー。
『めちゃイケ』は最近見てないので何も言えないけど、「七人のしりとり侍」の件を未だが引き摺られているとしたら、ヤだなぁー。『水10』も同様に。
『志村けんのバカ殿様』は下品なネタや他人をバカにするネタが多いのが批判の対象になっているのだろうけど、最近ネタの使い回しが激しいのが個人的に面白くないし(まぁ、昔を知らない若人たちには良いんだろうけどね)、ゲストとのトーク番組化してるのが一番つまらないから、こんなトーク番組観せるぐらいなら…という感じは個人的にある。
『エンタの神様』に至っては、アンジャッシュ・アンタッチャブル以外の芸人の笑いが肌に合いません!
そして『ズバリ言うわよ』はそもそも、細木数子の語りの手法が個人的に気に食わん!
…そんな感じで、見続けてる『クレしん』だけ「ランキングから外してくれ!」と擁護してる私であります。
…が、ちょっと考えると、このランクに入っていることは、実は「アニメ」というジャンルに属するものとしては正しいのかもしれないと思うところがあったり。
というのも、ジャパニメーションの原点であるところの戦後日本マンガは、モラルから外れていることで、その勢力を拡大していったという背景があるからで…
サッカー一筋…カズが政界進出一蹴
J1・横浜FCの元日本代表FW三浦知良(40)が、自民党から今夏の参院選の比例代表での出馬を要請され、断っていたことが16日、分かった。体調不良で横浜市内で行われたチーム練習を欠席したが、クラブを通じ「お断りしました」と談話を発表した。あくまで一人のサッカー選手としての現役生活にこだわり、次戦の大宮戦(19日・駒場)出場へ意欲を見せた。
カズが出馬要請を一蹴した。無党派層へ影響力のある比例候補として自民党は抜群の知名度を誇る“キング”に出馬を打診した。しかし、以前にも水面下で政界進出オファーを受けた40歳は、今回も一サッカー選手へのこだわりを貫き通した。
「自民党よりオファーを頂きましたが、お断りしました。土曜日の試合に向けて、しっかりと調整して全力で頑張ります」。体調不良で急きょ練習を欠席したが、チームを通じ、出馬しないことを表明した。
現役プロレスラー議員はいるが、団体生活のサッカー選手に両立は困難。カズは脂肪となりやすい午後6時以降の食事を控えるなど体調管理に人一倍気を使うプロ中のプロ。引退前の出馬は「セオリーで考えればない」(高木監督)のが当然だ。
だが周囲は大騒ぎだ。横浜市内のチーム事務所にはサポーターの問い合わせが殺到。チーム公式ホームページで出馬辞退コメントを発表する異例の事態となった。横浜市内の練習場にはテレビ局5社など約70人が詰めかけ、12日・広島戦でのJ1日本人最年長ゴール(40歳2カ月16日)に続く話題をもたらした。
17日の練習参加も体調次第だが、近い関係者は「参院選より連勝がかかる次の試合を考えている」とあくまで19日・大宮戦に照準を絞るカズ。高木監督は「“総理大臣だったらやる”って言うかもね」と冗談気味に明かしたが、今はサッカー人生を突き詰めていく。
5月17日10時57分配信 [デイリースポーツ]
まぁ、そりゃそうだよな。兄弟揃って幼少期からサッカー漬けで、政治のことなんてからっきしダメだろうし。
それに我が家にとっては、Jリーグ発足当時からのヒーローなので、カズには終身サッカー関係で頑張ってほしいんだよねぇ~
もう、若人にとっては、「誰、それ?」扱いかもしれんが(泣)
スタッフのキャラへの愛によってストーリーを紡いできたこのシリーズだが、今期の場合は、
スタッフのキャラへの愛によってストーリーが破壊されている感じを受ける…
ま、単純に言えば、キャラ多すぎ、ってことに尽きるわけだけども。
1期、2期はなのは側ともう一方という二極視点で「ともだちになりたい子を助けたい」という直線的なストーリーを紡いでいたわけだけど、今回はキャラがそれぞれに諸事情を抱えているせいで、それらをすべて描こうとして視点が分散しすぎているんだもん。
…でも、弊害ばっか多い大所帯化だけど、OPのラストカットを見てると、これでもいいかなぁ、と思えてくる。
なんかこれを眺めてると、「私たち、チームで頑張ってます!」みたいな団結力というか家族的な情を想像してしまって、特に前作から引き続き出ているキャラの(身長的な)成長を見るに、感慨深いものもあり、またフェイトの孤独から本格的に始まったこの物語も、こんな大所帯を得るまでに仲間を増やしたのだなぁ、とそこもちょっと心揺さぶられるものがある。
だから、この画のチーム感に説得力が伴ってくるようなストーリーがどこかで出てきてくれれば嬉しいなぁ~
しかし、媚び媚びなキャラデザと、1期1話での吉成鋼の力み過ぎの作画目当てで見続けてきたこのシリーズも、付き合い続けて、思えば遠くへ来たもんだ…
…と、懐かしい画像を引っ張り出してきて、1期のあどけない小学生なのはと、今期のすっかり落ち着いちゃった成人なのはを比べてみると、実体験年月と作品内時間の別なく、月日の流れというものを感じられて、なおかつ『魔法“少女”リリカルなのは』の物語の終着点への旅に同行しているのだ、と思うとちょっとセンチメンタルっぽい感動に浸ってしまいそう。
…そんなことを考えていたら、『オトナ帝国の逆襲』の、あの奇跡の3分間回想シーンを連想してしまった。
父に釣りに連れて行かれるヒロシ(幼少期)から始まる回想が、子を釣りに連れて行くヒロシの画で終わるのには、輪廻というものを感じられて(おまけに自転車の車輪がぐるぐると回っているのが寓意的)、それを考えると何度見ても泣ける。
あと、同じようなレイアウトなのに、右はみさえとひまわりとシロが増えてるのが、もう卑怯! 少年ヒロシは「万博」とその時代を失ってしまったけれど、今はそれ以上に得ているものがあるんだよ、ということをこれ見よがしに示してくれているのだから。
果たして『なのは』は13時間(26話)で、この最強の3分に辿り付くことができるだろうか…
山本寛(ヤマカン)が監督から降板して、武本康弘監督に替わってから第二回目の『らき☆すた』だけど、前回と今回を比較する限り、前回のは、まだヤマカンが監督在任中だった頃にスタッフにお願いしてて途中で抜けたもののように感じる。武本監督が本格的に手を入れたのは今回からなのかも。見極めるのには次回を待った方が良さそうだけど。
ちなみに、最近知ったんだけど、「監督は作品の演出を行なう人」というイメージがあるわけだが、役職としての「演出」と「監督」って違うんだよね。
「演出」は各話の作画面での制作指示や音響のチェックなど、絵コンテに書かれていることを実際に形にして仕上げる、各話における最高指揮官みたいな役割で、「監督」はその「演出」の絵コンテ・演出の統制を図り、シナリオや編集、美術や色彩設計などの方針など、作品制作全体を広い範囲で見渡して調節する役目を負っている感じ。で、その監督さえも指揮下に置き、スポンサー・テレビ局など外部との折衝も行なう最高責任者がプロデューサーとなるわけだが。
だからヤマカンは、各話演出みたいな現場仕事では一点集中の如くすごい能力を発揮する人だけれども、いろいろなことを幅広く管理しなければならないデスクワーク的な監督業には向いてなかったんじゃないのかなぁ~。要領がいろいろと違うから。
おかげで私の中では、『グレンラガン』のプロデューサー降板“事件”のような騒動と違って、ヤマカン降板は「降格処分・配置転換」の二言で済んでしまう社内人事だよな、と思えてしまって、そこがまた会社的なザ・京アニスタジオっぽいやり方に見える(笑)
洞窟で特殊部隊が謎の浮遊石への銃撃を止めた後の子ども二人を映すカットの、カメラぶれとピントボケに「うおおおお!! めっちゃリアルやー!!」と魂を震わされた『ラーゼフォン』#15「子供たちの夜」の脚本・演出を担当していたことが個人的に印象深い磯光雄が監督をやっている『電脳コイル』がNHK教育で本日放送開始。
某掲示板で、このアニメの制作陣について、
「何、この、10年ぐらい前にオタクが勝手に妄想しそうな“ぼくのかんがえた、スーパーアニメをてがけるスタッフ”みたいなスタッフ構成は!?」
と評していたのも、どうでもいいコメントだけど印象に残っていたり(笑)
とりあえず、それだけ作画方面でスゴイアニメ。
しかし、そこはかとなく漂うNHKアニメ臭。
それに各所で言われてたけど、最初引っ越し中の姉妹が出てきて、妹の方が後ろ髪を二本に束ねていて、好奇心旺盛に丸っこい謎な物体を追いかけていくのは、確かに『となりのトトロ』に見えるなぁ~
違うトコの意見では『ドラえもん』の後継者とも。確かに、四次元ポケットとか、不思議だけど日常的なデザインの便利アイテムの名前の頭に何でも「電脳」ってつけちゃう安易さがそれっぽいよな。
(←そして長ーい釣竿がスルスル出てくる四次元ポケット風)
でも、『電脳コイル』は世界観の説明が必要な未知の未来を舞台にしているけど、『ドラえもん』は未知の未来の道具を説明不要の既知の現代ないし経験済みの過去を使うことで、不思議アイテムの説明の煩雑さを回避しているという違いが、ネックかな。
で、まぁ、Takeとしてはストーリーよりも、作画とか絵コンテとかに着目すべきなんでしょうが、「ああいうことを表現したいならこの編集でいけよ!」「うおおお、動きが崩れてる!」みたいに直感的に気になった部分がなかったから、まぁ良かったんでしょ。
…なんか、「すごいスタッフのアニメなんですぅー!」とか自分で言ってる割に、ものすっごく低いレベルの感想だけど(汗)
私が分かるというか、何か言いたくなるのは、笑いの演出だけだけど、でも、結構巧くいってるんじゃないだろうか。
例えば、電脳ペットのデンスケが一発芸をやるシーン…
ゆーっくりとした動きを後ろに転げるまでワンカットで見せていたのがいい感じに微笑ましい。
オヤジは存在自体が笑える。
頬を赤らめるシーンでは、フレーム外からツッコミ役の顔が入ってきたのが、面白い。その後にこの娘、フレームから顔引っ込めるから位置的にも的確。
そして極め付きが次回予告の最終カット。
→
ギイイィィィ… ジャン!!!
狭くて暗い木造の便所がゆっくり開きながら、視界の開けた明るい場所の便器に鎮座している絶妙な表情の婆さんを、下から煽って撮ってるこのカットを見たら、もうこれは笑うしかないでしょ。
来週はこの婆さんのシーンが楽しみだ(笑)
(ナレーターが大友龍三郎に替わってたね)
そんなテイタラクの中、興味をそそられたのは“トリビアの種”の「学者が考える人類史上最も“カワイイ”キャラクター」。
ちなみに、四方田犬彦に言わせれば、「かわいい」という概念は日本以外には存在しない、ないし、西洋では発見されなかったものだそうで、ここでの「人類史上」ってのはつまり「日本史上」と同意なわけだ。
看板の割に、なんかやろうとすることが狭い気が…
(でも最近では、アメリカ等にも「kawaii」が上陸して、徐々にワールドワイド的になっとるようですが)
(※英語で「かわいい」と翻訳できるものはあるけれど、cuteとかcharmingだと「ガキっぽい」って否定的な意味の含みがあるし、darlingは愛の深さが強烈過ぎる。適度な距離をとって肯定的な意味で使ってるのは日本だけ)
さらに付け加えると、「かわいい」と「美しい」を比較すると、「美しい」ってのは高嶺の花を恋焦がれるようなものだけど、「かわいい」はもっと距離が近くて、手元に置いておきたいぐらいの好きさ加減なのよね。
それに「美しい」が完全無欠の絶対的な対象に対する畏怖の感情が含まれているのに対して、「かわいい」は何か欠けているものに対する愛おしさというか同情ないし優越感を表しているという。
(だから私は「萌え」は「かわいい」の感情を大本にした言葉だと思うけどね。オタクがマンガやアニメのキャラクターに「萌え萌え」言っちゃうのって、マンガやアニメのキャラクターが抽象的に簡略化された線で描かれた欠けた存在だからだし、それに、男オタクから萌えキャラと呼ばれるキャラクターを見回してみれば、何か人間として大事な部分が欠けているような頭の足りない連中ばっかりだし(笑) あと、「赤松健って萌え作家だよねー」という文章をよく見かけるけど、正確には「萌えとエロの人」だから。「かわいい」と「エロ」はリビドーの原点が違うんだってばッ!!)
あと、かわいさの背景には必ず「グロテスク」という概念が存在している。
冷静にかわいいものを見てみると、実は結構グロテスク。昔、『たけしの万物創世記』でやってたけど、『おジャ魔女どれみ』のキャラデザをそのまま実写の赤ちゃんで再現してみたらどうなるか、というのをCG使ってやったら、目が異様にデカくて気持ち悪く、異生物っぷりが感じられた。
(←再現)
「かわいい」と「グロテスク」は紙一重ということで。
ほれ、トリビアで作られたのだって、気持ち悪い気持ち悪い(笑)
さらにさらについでに、「かわいい」と「ノスタルジー」も似たようなもので、時に「ノスタルジー」もグロテスク化してしまう。ノスタルジーがグロテスク化というか恐怖や脅威になってしまうというのは、漫画の『20世紀少年』や、『クレしん』の『オトナ帝国の逆襲』でも提示されていたし。
閑話休題。
生物学的に「かわいい」を科学すると、「かわいい」という感情は、基本的に赤ちゃんに対する親の“種の保存本能(「子どもなら守るべし!」)”から来るらしいので、学者先生らが挙げた、心理学的面から見た「かわいい」というのは、大人が子どもを見る視線に由来しているのよね。
体が小さい(=頭がでかい)、丸っこい、額が大きい、目が大きくて離れていて顔の真ん中より下についている、強さがない、動物的で人格が薄く見てる側が感情移入しやすい、単純なデザインで欠如感がある、暖色系(=人間の肌の色)が好まれる…等々、すべて子どもに当てはまる要素だと言える。
…でもね、世間から「カワイイー!」と言われてるキャラクターにもかかわらず、上記の条件に当てはまらない項目が多い例外的なキャラクターがいることを、真っ先に思いついた。
ドラえもんだ。
目は頭部の上の方に付いてるし、完全な寄り目で、体色は青ベース。上の要素の半分が否定されているではないか。
おまけに、ドラえもんって役割が保護者的で、読者や視聴者に対して優越的なんだし。
それでも皆さん「かわいいー!」というし、緒方拳もハマってる(笑)
頭でっかちとか目の部分がでかいとか、そこらへんの要素がかわいらしさなのかもしれん。
…まぁ、こんなことを思うのも、夏目房之介がそう言ってたからだけど。
著作権違反はけしからんのだが、私の思考って割と左派系なので、ちょっと中国側を擁護するというか、日本の国益をあまり考えないような発言をすると…
中国を著作権もロクに守れない非常識な国だとして各メディアは論っているけど、日本だってその昔は著作権無法地帯で、アメリカに「Copy Cat」と蔑視されるほどだったのに、そんな自国の歴史的経緯にはどこのメディアも触れなかったのが、甘いなー
10年ぐらい前でも「サザエボン」なんてモンがあったし(今アレどーなっちゃたんだろーねー?)、つい最近も「ドラえもん幻の最終回」が問題になったり、WinnyやYouTubeのこともあるのに、それとは結び付けてはくれなかった。
現代の日本でもまだまだ遵守し切れていない部分があるのだし、高度経済成長期中で先進国のレベルにまで至っていなかった時分の日本では言わずもがななので、その時分と同じような経済成長状況の中国も、まだまだその程度ということで。
メディアに恣意的に選ばれた発言ではあるけれど、北京市民の声で「著作権云々を一々持ち出してくる方が変だ」「芸術や娯楽は共用資産だから、無断使用なんて問題が発生するわけがない」「ディズニーキャラのグッズなんて街中に溢れてるんだから、使ってもいいんじゃないの」なんてのがあったのは、その証拠じゃないかしら。
キャラクターを著作権とは見ずに、流行か井戸みたいに普遍なものとしか認識できないという。
それを後進的だと罵ることはできるだろうけど、育ってきた環境とか文化下での理解の限界というものもあるしなぁ…
…まぁ今の中国の場合、国連常任理事国で準先進国のくせに、国営のところでこんなことしてるから、あくまで民間レベルでの違反だった日本とは違って、「いい大人が何しとんねん!」みたいな批判が避けられないのだし、おまけに現代中国は共産党一党独裁という“独特のキャラクター”があるから、「やっぱり中国だ」みたいにギャグ視されてしまうのだけど(笑)
そうです、ギャグです。
石景山遊楽園の何が卑怯かっていうと、「絶妙なまでに手抜き感が溢れてる」ことで、ギャグ化してしまうことにあるんだわ。
これが本家本元も後退りするぐらいに出来がよかったら、ディズニー本社も本気で乗り込んでくるところだろうけど、手抜き感のせいであんまり似ていなかったら、「これは絵であって、芸人本人が描かれたグッズではないので、芸人に対してロイヤリティは発生しません」と主張する吉本興業よろしく(笑)、「これは本物の忠実なコピーではないので著作権違反ではありません」と言い逃れができる余地ができているし、怒りよりも笑いの方が先に込み上げてくるから、誰も本気になれないんだよね(だからこそ、ネタになってしまったわけだけど)
「ドラえもん幻の最終回」にはあれほど真剣なVTRを作り辛辣な意見を挿し込んでいたテレビ各局だけど、そうなった要因の一つが「幻の最終回」の出来が良かったからであって、石景山の方はマジメに取り組んでたとこなんて、どこにもなかったもんなー。
しかし…
私が石景山のニュースを初めて知ったときの記事についていたこの写真…
着ぐるみの表情といい、端に寄ってしまったレイアウトといい、ホラー的なアングルといい、見事なまでマヌケ感が醸し出されているのが憎い(笑)
人体もロクに動画させられないクセに、車なんか動かさないでくれー!!!
…と叫びたくなる、映画『スピード』か、はたまたそれを元にした劇場版『時計じかけの摩天楼』を元にしたパニックアクション話。
「推理モノの『コナン』のテレビシリーズの短編で、アクション主体の話を出してどないすんねん」というスケール的な不満がないわけではないが、まぁどうせ最近の推理主体のオリジナル話も窮屈で大したことないし、脚本陣の気晴らし半分でも面白いパニックアクション話を見せてくれるなら、そんな番外編的な見せ方もたまには歓迎するぜ、と期待したりもしていた。
…が、今の『コナン』脚本陣にそんな“普通の”芸当ができるワケもなく(笑)
とりあえず、この手のストーリーはスピード感が大事なので、テンポよく話を進めないといけないと思うのだけれど、何かこう、15分ぐらいでパッパッパッと展開しなければ面白くならない話を、倍の時間かけてのんびり見せられているような感じをAパートで覚えさせられた時点で、もう今回の話はダメ。
それに、動く密室とも言える車、それも内部空間が狭いセダンを利用した話なのに、途中からそっち方面の緊張感がまるで足りなくなってしまうのはどういうことですか?
爆弾を搭載した動く凶器のせいで交通規制が掛けられて、街が異質空間に変貌していく様子は面白かったし、警察が決死の覚悟で臨む救出話は、お約束通りの妨害要素もあってそれなりに盛り上がるのだが、あくまでそれは「外側」の部分。
主人公たるコナンは車の中にいるのだから、車内のパニックっぷりが強調されていないと、外野だけがワイワイ騒がしいという感じがして、視聴者の感情と連動しないのではないか?
それどころか、車中の人物が悟りきった僧侶のように落ち着き払ってて、何のドラマも展開されないのだから、これはもう、どうしてくれよう…
んで、この状況下に相応しいドラマ的なものが展開されたと思ったら、主人公だけが救出されて視点の比重バランスが大きく崩れた後だしな。
でも、そのドラマ的なものは、割と面白かった。
運転してる小五郎が娘の蘭に、「いざとなったら車から飛び降りろ。ケガは免れんが、命には変えられない」と言うのだけれど、蘭は「お父さんを置いては行けない」と、まぁ、お決まりのな展開。
で、その直後の小五郎のセリフがグッと来たのだけど、実は「オレの言うことを聞きなさい」というセリフを「親の言うことを聞きなさい」と聞き間違えてしまったせいで面白かっただけだった(笑)
小五郎って、娘からもだらしなさを叱られるようなダメ親父で、たぶん本人も自覚はあるんだろうけど、でも、そんなダメ親父でも娘を思いやる気持ちというのは人並みにあるもので、信用されてない娘を説得するほど自分に親としての権威がないのは分かってはいるけれど、それでも精一杯「親」という立場を利用して、何としても娘を説得して助けたい、という、まぁ親のワガママといえばワガママなんだけど、そんな不器用なカッコのつけ方に、子を持つ親の心理を感じられた、というところが良かったなぁ、小五郎のキャラクターの掘り下げも出来ていたし……
…って、言いたかったんだけどね、聞き間違いだった(笑)
ただ、小五郎のキャラクターのことを言うならば、前半は神谷明のカン高い声で
「バ、爆弾!? たたたたたた大変じゃないか!!!! どーしよー、どーしよー!!? こんなことなら昨日の麻雀に参加しとけば良かったー!!!」
…と言いながら、精一杯醜態を晒してくれた方が、小五郎の軽薄なキャラクターに合ってたような…
そして後半になってもう助からない段階まで近付くに従って徐々に落ち込むというか落ち着いていって、深刻な表情を見せてくれれば、それはそれで「ピンチにゃ冴える」小五郎のキャラクターも深まるだろうし、ドラマ的にも感情の起伏がはっきりしていて、感動と興奮を呼び起こすアクセントにもなったんじゃないかしら。
そこらへんのところは、あまり脚本、考えてくれなかったようで。
まぁ、脚本があまり考えてないのは他にもいろいろとあるけどさ。
前述の小五郎と蘭のシーンのところで、母親の妃英理のことが全然セリフに出てこないのが不思議。
別居はしてるけど、小五郎と英理って、なんだかんだで仲がいい部分があって、互いに愛し合ってるんだなぁ、ということが感じることができるので、命の危機を前にしたら小五郎が蘭に「無事に脱出できたら、英理に伝えといてくれ」みたいな感じで伝言ぐらい残しそうなものなのに、それをやらないというのは、キャラクターを大事にしていないなぁ~、と不満を感じてしまう。
それに、そんな『コナン』特有の設定なんて脚本書く時に頭に入ってないとしても、「父と娘の命の危機」という場面なんだから、普通だったらこの場にいない家族(母親)の話題が出てきて然るべきだ、という作劇の原則というか人間心理のことを、脚本の枝葉末節を考える時に頭に浮かべるモンじゃないだろうか?
それがないということは、ひょっとして脚本家、蘭の家は片親だと勘違いしていた…?
あるいは、今回画面に出てこない人物の話題なんか出したら話が混乱する、という判断が働いた結果かもしれないけど、今回の話はただでさえ薄っぺらいんだから、そういう部分でちょっと深みを出しても良かったものを…
たぶん今回出したセリフ以外は興味なかったんだろーなー…
逆に、犯人の方は、キャラクターに深みを出そうとして失敗してる。
車が停止できない特殊な状況を好き好んで作り出している犯人なんだから、もっと考えの軽薄なマッドなヤツにした方が、話はすっきりしただろうに。
『コナン』の犯人の犯行動機はそれなりに同情できるものでなくてはならない、という縛りが災いしてるなぁ…
そして今回の脚本の最大の疑問点は、クライマックスの犯人追いつめシーン。
殺人犯である自分の兄は警察の執拗な追跡が原因で死んだ、と思い込んでいる犯人に、目暮が「何を言っている、ちゃんと自殺だという証拠があるんだ」と諭すんだけど…
いや、状況証拠はそうだが、警察に追跡されてバイクで逃走中に、そのまま故意に壁にぶつかって自殺、なんてのは自殺の方法として聞いたことがないし不自然なんで、まず勘違いして思い込んでも仕方ないだろうに…
「何を言っているんだ」と無知を貶す発言は、セリフの選び方間違ってる。
その後で小五郎が犯人に向かって吐くセリフ。
「良かったじゃないか。お前の兄貴は人を殺めちまったが、お前はまだ誰も死なせちゃいない。本当に良かった」
…あのー、スミマセン。爆弾という非常識なモンを使って町中に迷惑かけたというのに、何が良かったと言うの?
犯人のことを思いやった小五郎の心からのセリフだとしても、そんな風には聞こえないし。
そんな軽薄なセリフなのに、それまで聞き耳持たずで怨み節たらたらだった犯人がそれを聞いてすぐさま「毛利さーん!!!(ウルウル」と改心してしまうのには、おいおいおい!!!
相変わらず、高得点が出過ぎ、という不満要素が存在する「仮装大賞」ですが、ちょっと擁護的な考えをすると……回数を重ねると参加者の顔ぶれも大体似たような感じになってきて、そうした歴戦の勇者たちが経験を生かして、ウケが良いものを分析したり、より高いレベルの表現やアイデアを出してきたりすることで、ほとんどの出場者が合格になる域にまで達したのかなぁ、とか思ったり。
ただ、ウケがいいとか高度な表現に必要だからって、子どもを大量に動員して、凝った仮装を次から次に繰り出していくというタイプの作品が私はどうも嫌いでねぇ…
なんか、数こそ勝利、みたいな感じになってるのが卑怯だと感じられることが多いんだよね。
今回の「孫悟空」もいろいろなアングルやショットサイズで“撮影”してる感を出すために、二十人以上が参加している大所帯の作品だけど、アイデアが人数ありきの普通のものでそれ以上のものを感じなかったので、あまり評価したくない。
“撮影”を意識した「僕の彼女が怒る理由〈ワケ〉」も、同じ感じで人数使ってるけど、こちらはフィルムの撮影速度に着目して、『マトリックス』的な瞬間スローを使っているところが新鮮だったし、高速逆回しを活かす脚本面的な構成も面白くて、評価は出来る。
ただ、撮影技術に着目した作品は、如何せん最近出過ぎている上に、ギミックが凝りすぎているので見た後に疲れる、という欠点があるにはある。
そう考えると、最優秀賞の「池に映る風景」は、雰囲気だけを重視したシンプルなアイデアに、シンプルだけどインパクトのあるギミックを使っていた、そのさじ加減が素晴らしかったなぁ~
「暑~い!」は、子どもを使った卑怯な作品の部類に入るかもしれないけど、「体を引き裂いて中から別の人間登場」というスプラッタ寸前のアイデアは「うわー! こんなん見せちゃっていいのー!?」という面白味があったし、どういうギミックかよく分からないものの、シンプルでインパクトがあるものだし、子どもをオチに使わないとできないネタを考え出したということでも評価できるかもしれない。
何にしても、帽子の中にすっぽり収まっちゃった女の子、可愛いねぇ~(笑)
子どもを使って卑怯だったのは「ウルトラマン」。私には、仮装大賞の舞台で、父子がちょっと豪勢にウルトラマンごっこをしてるだけにしか見えないかった。
「チョキチョキダンス」も人数合わせ系に入るかもしれないけど、音楽に合わせてチームワークの取れたダンスを披露していて綺麗だったので、まぁよし。
ただ、踊りと音楽で誤魔化しているような感じがするので、評価はしないけど。
撮影技術のほかに、最近では脚本的な面で工夫を凝らしてるのも多くて、技術賞を取った「そしてグチャグチャになった」も、バスター・キートン的な不幸の連鎖を考えて作られている脚本系。
で、ちょっと話を戻すけど、人数ありきのネタが個人的に嫌いということがあって、独りで虚しくがんばる小ネタ集的な作品が、私は大好きだったりする。
なんかねー、ネタが次々と繰り出されるという大盤振る舞い感が楽しいんだよね。「それも数がモノを言ってるじゃねぇか」なんて批判もあるかもしれないけれど、個人的にネタの数が多いのは気にならんらしい。あと、独りでやるという哀愁漂う姿が何とも愛しくてねぇ(笑)
「いろんなリン」は、もう、理想の独人小ネタ集。
「メタボリックジャパン」は、自虐っぷりと白けっぽさが、もう、笑うしかないよなぁ~
「サンダーバード」は卑怯だよなぁー。
ジェットエンジンの噴煙をすすり食う麺に見立てて、延々と「揖保の糸」をすすり続ける、というただそれだけのネタなのに、糸につるされて際限なく徐々に上に上がっていく、という小技を合わせることで、単調さを別のものに変えてしまっていたのが、小憎たらしい。
あんまりにもしつこく繰り返されて続けられると、「引き延ばし効果」になってしまって、マヌケ図に見えてくるんだよね。
おまけに笑えるまでにオーバーに見開いた眼で延々とカメラを凝視しっぱなしなので、笑えて笑えてしょーがないのだもの。
「このアイデアは捻りが無くて繰り返しで時間を稼いでるつまらない部類のものだぞ」と頭で理解していても、映像で見せられるとどうしても笑ってしまう。等速で上昇し続けるってのが、ポイントだよね。
「ど根性大根」、外人をひたすら虐めぬく、という反国際化社会的なヤバイ図が展開されていたので、もう、笑うしかなかった。
欽ちゃんとのトークでも「ダイジョーブ!」とにこやかに答えていたし、強いなーこの人。
母親から、知人がひこにゃんを嫌っている、という話を聞きました。
まぁ、かなりデカくなったひこにゃん人気ですから、その反動としてアンチ勢力が発生することは、ある種の必定でしょう。
しかし…
この話、そういう類のものとは一線を画しているというか、あさっての方向に突き抜けてる気がします(汗
その知人さんというのが、元々ファンシーグッズが好きという性格もあり、最初は築城祭の盛り上がりに合わせて、ひこにゃんグッズを集めていたらしいのですが、最近その人のお師匠さん格の友達の人から…
「ネコというのは怨霊になりやすくて人にもすぐ取り憑くのに、そんな何百年も前の曰くの付いた伝承を軽々しくネタにしたキャラクターの商品なんか持ってたら、あんた、呪われるで」
と、かなりの説得力を持って言われたらしく、不安になった知人さんは因縁を完全に断ち切るべく、ひこにゃんが少しでも描かれていようものならポスターをビリビリに破き、ぬいぐるみを引き裂き、お神酒をかけながら燃やしたらしいです。
はわわわわわわわ………
…そして、その知人さん、ウチの母親に一言。
知人「あなたもグッズいっぱい持ってたわよね。早めに処分した方が良いわよ」
母親「そうねぇ…」
ちょ、待!!!
笑点メンバーの黄色いバカ、木久蔵師匠の新しい芸名がこのたび決定した。
実子の林家きくおが落語家の真打に昇進するにあたって、「木久蔵」の名前を譲るという話なのだが、そうなると譲った後の木久蔵師匠がどういう芸名を名乗るのかが問題になる。
たいていの場合は、自分で作ってしまうか、師匠に考えていただくのだが、木久蔵師匠はそんじょそこらのマジメな落語家とは一味違う。
前代未聞の「公募方式」で決めるという。
伝統を重んじる落語界では、なんとも型破りなやり方である。
でも、公募にしたのは、新しい名前を考える頭が足りないのか(笑)、襲名披露で沸かせようという計算を働かせた策士なのか…
で、決まった新しい名前なのだが、“木久蔵”改め、「木久翁(きくおう)」になるという。
おバカキャラで売っている木久蔵師匠にしては仰々しい名前とも言えるけど、『笑点』で数十年も慣れ親しみ浸透してきたので、“木久蔵”という名前の響きと木久蔵師匠のキャラは不可分のような気がして、だから、あまりにも違った名前になるよりは、「木久ちゃん、木久ちゃん」と親しみを込めて呼べる“木久蔵”の響きが残っている芸名の方が、ホッとできたり。
ただ、どうでもいい事柄だけど、ちょっと思うことは…
林家きくおが木久蔵になって、林家木久蔵がきくおうになる、というのは…
それ、ちょっと間違うと、親子で名前を入れ替えただけ、ってことになりかねんのではないか!?
>かがみ「ラストで、赤い洗面器を頭に乗せた男が」
ひょっとしてそれはこれのことですか。
アヴァンの『怪物くん』ナレーションや、こなたの想像の『ゲッターロボ』と『トップをねらえ!』、『ケロロ軍曹』のUFOキャッチャー、太鼓の達人で流れる『涼宮ハルヒ~』の「ハレ晴れユカイ」、エンディング代わりのカラオケ『アクマイザー』とかはよく感想サイトとかでも指摘されてるけど、果たして何人の人間がこれに気付いたか、その結果がとても楽しみだ…
…と鬼の首を取ったかのように言ってみる(汗
でも、三谷幸喜テイストってアニオタにも合いそうな感じがするので、三谷作品観てて気付いてるオタクも意外と多いのかも。
そして、私以上に細かいネタを指摘して「ふんッ、貴様はその程度で天狗か(プゲラ」と嘲る人もいたりして(汗
ついでに思ったことだけど、『涼宮ハルヒ~』とか『らき☆すた』観てると、京アニの作品って、アニメ職人が作ってると言うよりも、職場で作ってるなぁ~、って感じがするんだよね、良きにしろ悪しきにしろ。
アニメーターとしてのこだわりで動かすというよりは、職務に堅実というか。
いや、まともな経営状態のスタジオがないアニメ業界では、かなり貴重な“会社”だと思うし、私はどうしても憎めないけどね。
>こなた「私は一夜漬けが得意だから大丈夫。だから見せて」
>かがみ「お前も少しは悩めよッ!!」
>こなた「私も全く気にせず遊びました!」
>先生「いずみッ」
>こなた「おかげさまでバッチリ!」
>かがみ「納得いかねぇーッ!!」
ここらへんのタイミング取り(間の短さ)とかテンションの落差とか大好き。
まぁ、理由は推して量るべし。
あっ。あと、マクガフィン繋がりで、もうすぐYahoo動画で配信終了になるヒッチコック作品…
いいねっ!ビシッ∑d(>▽<)