幸作が職員室にいることにすごい違和感が(笑)
だって3-Bにいた頃と大して演技が変わってないから、先生っぽさがないんだもん。
かわいいヤツだ(笑)
でも、「やっぱり金八の子だ」と金八一派に褒められた幸作先生の授業に、全然金八節っぽさがないのは、脚本の欠点でもあるぞ。
「善いことをすることほど難しいことはない」
「他人を助けるということは、助けられる人を、“弱い、可哀相な人”だと決め付けることになる」
これは今回印象深かった金八節だけど、「救われた」と言わずに「生きる力を教えられた」と言葉を選ぶ小山内美江子脚本っぽさがあった気がした。(今回のは武田鉄矢の裁量か?)
でも、金八節とか格言はともかく、『金八』って決め付けのドラマ構造だよね。
今回だって、子どもだったら親に会うべきだ、友情を感じ言葉に感激したら助け合うべきだ、という固定的な価値観が絶対的なものとして存在している。そして、実際親に会ってみたら最良の結果が得られた、というドラマ運びにして、その価値観の正しさを強調する。
家族の結び付きが弱まっている実情と、いろいろ精神的に荒廃した社会状態とが同時進行の現状を考えれば、そりゃ私だって「親との絆はなおざりにしてはいけない」と思うけんど、それはただ単に「当てはまる人が多い」というだけで、センチメンタルな思春期の子ども全部に当てはまる価値観・解決法ではないと思うんだよ。
ただ「親に会いたくない」というのでも、理由が違えば解決法は違うでしょ。純粋に憎んでるのか、プライドが邪魔して恥ずかしいのか、怖いと思っているのか…
今回は、イメージが崩れるのが怖いという理由だったから、「そんなに怖くはないよ」と背中を押してあげるか、「会わずに後悔するより、会って後悔するのも、一つの手“ではないか?”」とアドバイスすることであって、「親は大事だぞ~」と言うのは、一助になりはするが、焦点がずれてる気がする。
ドラマ運びとして、会ってみた結論として「それを選んで良い結果になった」という流れならいいけど、始めからいい結果になることが結論付けられてる雰囲気は納得できんなぁ…
もうちょっと選択肢があってもいいんじゃないの?
まぁ、小山内脚本でも、子どもの根底は全て「良い子」である、ということが徹底されている、という決め付けはあったけど。
そりゃ、生徒の心の問題という皮を剥いて行けば、その中心にあるのは「良い子」(性善説)なのかもしれないけど、その皮の厚さは人それぞれだと思うよ。それなのに、問題が解決するときの半分は、教室で生徒一律に説教した結果だもの。
小山内先生は「問題の抱えた子どもは、一皮剥けば良い子になる」と思ってる節があるんだけど、「みんながみんな、金八節一撃で消える皮ばっかじゃないだろ」と私は思うなぁ
だから今回、「いやぁ、そんなことを言われても解んねぇ(善い事は善い事なんじゃないの?)」という頭の悪い発言で金八節をやんわりと否定してしまったタイショーたちに、どうしようもないリアリティを感じてしまったわけだが。
しかし、今の『金八』は原作者の思う『金八』として理想のフォーマットなんだろうな。
刺激の強い大事件の連続や不穏な雰囲気漂う伏線という「見かけの視聴求心力」で物語が引っ張られることなく、あくまで生徒個々人の細かな問題が物語を引っ張っていく、そして複数の問題が同時的に進行していくという、中学生のリアリティに沿った規模であるのが。
原作者ではない清水有生が脚本書いてる今期は、普通のドラマとしては卒のない作りになっていると思うけど、そのせいで「学校モノ」としてはビミョーになっている気がする。
問題の解決に偶然の要素が絡みすぎているのは、ちょいと問題ではないのかな。発生する問題に偶然の用が絡んでいても構わないけど、「解決には金八節が必要になる(そして生徒の意志で問題が解決する)」ということにしないと、何のための学校モノなんだか…