Take@管理人が、知ったかぶりのテレビ番組批評やとりとめもなく面白くもない日記などを書く、オタク臭さ全開のくどい不定期更新ページ(泣)
主人公は私怨に支えられて、世界を相手にする巨大な戦いに挑んでいる。そのためにはどんな非情な手段も辞さない構え。
しかしその反面、彼の内面には繊細で、特に身内や友達に対しては非情になることができない。
そんな主人公の心を理解し、恋慕の気持ちから彼に寄り添って助けになろうとするヒロイン。
しかし、主人公を敬愛する暗殺者の嫉妬によって、彼女は殺される。
主人公は彼女の死を前にして激しく打ちのめされるが、暗殺者は主人公の正体を知った危険人物を処理できて良かったと心底嬉しそうに報告する。
暗殺者はこの先の戦いにおいても計り知れない利用価値があるが、彼がヒロインを殺したことは容赦することなどできない最大事である。
しかし主人公は暗殺者に対して事も無げに言う。「よくやってくれた」
その言葉に喜ぶ暗殺者。
ところが、次に主人公が発した言葉は意外なものだった。「そうだ、ギアス教団を殲滅しに行こう。手伝ってくれるな?」
それまでの主人公の作戦スケジュールからは完全に軌道を逸した突発的な行動。
主人公の頭にあるのは、暗殺者にヒロインを殺す特殊能力を与えた教団に対する復讐。
彼の精神は根本から壊れてしまっていたのだ…
…というシナリオの場面を、映像として演出するとき、普通ならばどうするだろうか?
先週の話であれだけヒロインの死を悲しんでいた主人公だ。
まず人間的な感情が、冷静に殲滅作戦を打ち立てるまでぶっ壊れてしまうという、心境(精神)の変化を伝える、という方法を考えるだろう。
直接的に顔の表情の変化で表す必要はない。顔の表情が読み取れない位置…例えば背中…からの画を数瞬間、数カット、話の中に紛れ込ませるだけで、容易に気持ちの変化の筋道を読み取らせない「負の感情の蓄積」というものが彼の中に起こっている、ということが表現できるだろう。
この画的な表現によって、シナリオの流れを補強するのだ。
ところがこの作品では、その心境の変化の過程を描く演出を、バッサリと切り落とす。
切り落とす、と言うよりも、何事も無かったかのようにさらりと流して、主人公が得意げな顔で「よくやってくれた」と返答する。
視聴者はここで引っかかりを覚える。「どういうことだ!? 悲しんでたんじゃないのか!? アレは芝居!? それともこっちの方が…?」
そのような考えを巡らせていると、しばらくして次のセリフが耳に入ってくる。「じゃあ、教団をぶっ潰しに行こう☆」
…ここでようやく視聴者は、主人公が怒りを通り越してどこか別の境地に到ってしまったことを悟るわけだ。
普通だったら、今回のこの演出は、感情の変化を描写できていないダメな例として挙げられることになる類のものだ。
しかし、この話の中では、これはそう間違いではない演出として機能する。
視聴者のテレビ画面への興味を、画的な演出ではなく、お話の流れが引っ張っているからだ。
あるいはお話の流れのために、演出がお話の流れの邪魔にならないよう、お話の流れに任せている感じになっているとも言える。
そしてこの感情の流れの画的演出を“省略”する方法は、分かりやすい説明過多の演出をクドいと感じる者にとって、無駄を削いだスマートでスタイリッシュな現代的演出として好意的に捉えられ、それがこの番組の視聴者層の求めるものとなっている、という状況…
相変わらず、不思議なバランスの上にあるなぁ、この番組。
しかしその反面、彼の内面には繊細で、特に身内や友達に対しては非情になることができない。
そんな主人公の心を理解し、恋慕の気持ちから彼に寄り添って助けになろうとするヒロイン。
しかし、主人公を敬愛する暗殺者の嫉妬によって、彼女は殺される。
主人公は彼女の死を前にして激しく打ちのめされるが、暗殺者は主人公の正体を知った危険人物を処理できて良かったと心底嬉しそうに報告する。
暗殺者はこの先の戦いにおいても計り知れない利用価値があるが、彼がヒロインを殺したことは容赦することなどできない最大事である。
しかし主人公は暗殺者に対して事も無げに言う。「よくやってくれた」
その言葉に喜ぶ暗殺者。
ところが、次に主人公が発した言葉は意外なものだった。「そうだ、ギアス教団を殲滅しに行こう。手伝ってくれるな?」
それまでの主人公の作戦スケジュールからは完全に軌道を逸した突発的な行動。
主人公の頭にあるのは、暗殺者にヒロインを殺す特殊能力を与えた教団に対する復讐。
彼の精神は根本から壊れてしまっていたのだ…
…というシナリオの場面を、映像として演出するとき、普通ならばどうするだろうか?
先週の話であれだけヒロインの死を悲しんでいた主人公だ。
まず人間的な感情が、冷静に殲滅作戦を打ち立てるまでぶっ壊れてしまうという、心境(精神)の変化を伝える、という方法を考えるだろう。
直接的に顔の表情の変化で表す必要はない。顔の表情が読み取れない位置…例えば背中…からの画を数瞬間、数カット、話の中に紛れ込ませるだけで、容易に気持ちの変化の筋道を読み取らせない「負の感情の蓄積」というものが彼の中に起こっている、ということが表現できるだろう。
この画的な表現によって、シナリオの流れを補強するのだ。
ところがこの作品では、その心境の変化の過程を描く演出を、バッサリと切り落とす。
切り落とす、と言うよりも、何事も無かったかのようにさらりと流して、主人公が得意げな顔で「よくやってくれた」と返答する。
視聴者はここで引っかかりを覚える。「どういうことだ!? 悲しんでたんじゃないのか!? アレは芝居!? それともこっちの方が…?」
そのような考えを巡らせていると、しばらくして次のセリフが耳に入ってくる。「じゃあ、教団をぶっ潰しに行こう☆」
…ここでようやく視聴者は、主人公が怒りを通り越してどこか別の境地に到ってしまったことを悟るわけだ。
普通だったら、今回のこの演出は、感情の変化を描写できていないダメな例として挙げられることになる類のものだ。
しかし、この話の中では、これはそう間違いではない演出として機能する。
視聴者のテレビ画面への興味を、画的な演出ではなく、お話の流れが引っ張っているからだ。
あるいはお話の流れのために、演出がお話の流れの邪魔にならないよう、お話の流れに任せている感じになっているとも言える。
そしてこの感情の流れの画的演出を“省略”する方法は、分かりやすい説明過多の演出をクドいと感じる者にとって、無駄を削いだスマートでスタイリッシュな現代的演出として好意的に捉えられ、それがこの番組の視聴者層の求めるものとなっている、という状況…
相変わらず、不思議なバランスの上にあるなぁ、この番組。
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