脚本:黒田洋介 キャラ作画監督:今泉良一 メカ作画監督:松田寛 絵コンテ:ヤマトナオミチ・角田一樹・ミズシマセイヂ 演出:ヤマトナオミチ
平静な状況で電話がかかってきて、「もしもし。……はい、そうですが」というセリフの後、しばらくして、表情がみるみるうちに青ざめて「えっ…!?」と息を漏らしてしまう……
…という死亡情報の伝わり方って、古い描写なのかねぇ?
沙慈に電話がかかってくる描写無く、沙慈、死体袋に詰まった姉ちゃんとご対面。
突然のことで、視聴してるこっちも面食らう。
…で、この瞬間まで「ひょっとして姉ちゃん、なんかの冗談で生きててくれんかなぁ~」と期待してた自分に気付く。
あれ? そこまでお気に入りのキャラクターだったんだろうか?
冷静に見れば、シナリオ演出的にも画面演出的にも、誰のお気に入りにもなりようがないキャラなのに…
視聴態度が偏っとる…
で、このシーンでの姉ちゃんの扱いのぞんざいさに、ひどいモヤモヤ感が…
いや、別に、シナリオ演出的に「お気に入りキャラが死体袋に入れられてるのがヒドい!」とか、画面演出的に「最期なんだからもっと長く映せ!」とか思ってるわけではなくてですね(いや、ちょっとは思ってるだろうケド)、というか、今までのキャラ付けからすれば、この程度の描写で充分なキャラではあるんだけど…
問題は、姉ちゃんの側をどう扱うか、ということではなくて、その姉ちゃんの側の状況を受け止める沙慈の側の演出がどうかということでありまして。
要するにシナリオ感情としては、この場面はお姉ちゃんというキャラとの別れのためのものではなく、沙慈が悲しむ姿を描くためのものなんだから、そのためにお姉ちゃんを持ち上げた描き方をした方が、むしろ良いのではないのか、という考えが浮かんだモンだから。
そりゃあ、キャラ付け云々の重要度から見れば、沙慈をめぐるキャラ相関関係の中では、ルイスの方がより密な描写がされているために視聴者側の感情移入度は高く、それゆえにルイスの身に起こった悲劇性も強調される演出が施されていたわけだけれど、沙慈というキャラクターにとって、何とか生きている親しい赤の他人のルイスよりも、死んでしまった唯一の肉親であるお姉ちゃんとの対面の方が、よりショックがでかいハズなので、そこらへんを強調した演出にすべきではなかったのかなぁ、と。
そんなことを考えていたから、やけに逡巡なく死体袋のジッパー下げたなぁ、というのがひっかかってしまって…
実際に死に顔見てみるまで「ひょっとしたら何かの間違いかも…」と虚しい期待を持ってしまうのが人間心理であり、その期待を完全に消しさる事実を目にすることの恐怖というのもあり、その葛藤で、ジッパーを下ろすことを僅かながらの瞬間にでも躊躇ったり、手が震えたりするだろうから、そういう作画になっていたら、もっとリアリティあったろうし、リアリティ云々の問題以上に、キャラを深める効果もあったろうに。
まぁ、「お姉さんの遺体が見つかりましたよ」的な連絡を受け取った時点で、それはそれで事実として受け止められるから、遺体の確認作業は本当にその当人にとっての確認作業でしかなくなる、ということもあるだろうし、多分私もこういう状況だったらそういう考えで事務的に確認作業をするとは思うけれど、そうすると今度は、「間接的・事務的に知った事実」と「直接見た事実」が擦り合わさって合致した瞬間に起こる感情の動きというものが出てくるだろうし。
要するに、死を実感して初めて押される感情のスイッチもあるだろうということで、これはシナリオ演出的にも、事務作業的な感情で動いているキャラを感傷的な心理状態に移行させるためのバイパスを設けるという点で、その移行の瞬間を強調すべきだったのではないかなぁ、と。
画面見てたら、沙慈、普通に悲しんで泣いてるだけだしなぁ…
あと、無機質な死体袋の外観と、無機質な死体が顔を出した死体袋の外観とは、同じ無機質なもの同士のジッパー数十センチの違いだけとはいえ、天と地ほどの差があることにも、もう少し留意していただきたかった。
死体袋の提示から死体の完全な顔見せまでワンカットだから、視聴している側に何の感情も発生しないし。
おまけになんつーキレイな死体だこと。
…とまぁ、さももっともらしく書いてみたけれど、これって要するに、私が感じた「ひょっとして姉ちゃん、なんかの冗談で生きててくれんかなぁ~」という期待を、沙慈という劇中人物に「『ひょっとしたら何かの間違いかも…』とぐらい思え」と押し付けて、それを演出するよう求めているだけだったりする(汗)
というかそもそもですねぇ…
アバン1分程度のシーンについてなんでこんなに長々語ってんだ、私はッ!!!?
ホント、視聴態度が偏っとる…