うーむ…
最終回は、破壊すべき敵艦に仲間が取り残された前話の流れから行くと、ワンサイドゲーム化してしまった前作ラストバトルの弱点を補って、敵艦内外からのダブル攻撃でアクションを盛り上げて終わりそうだったから、期待してたんだけど…
実際は、助けて脱出したので第三者が心置きなく艦破壊して終わり、というイマイチ盛り上がらない結果に…
そうした前作の反省は、25話での、体の動きだけ操られた変身ヴィヴィオvsなのはママという状況設定に活かされていたものの、その部分は、作画が「操られた」感じをまったく出していなかったので、嫌だと言ってる割にノリノリで攻撃してる様にしか見えず、悲劇性も緊迫感もなくて、ションボリさせられた…
ただ、「ヴィヴィオが立ったー!」や、危機下での支援という形での弟子の師への恩返しや、1話アバンのなのはを髣髴とさせながらそのキャラらしさが表れたスバルのその後の活躍など、過去エピソードを伏線化させてシリーズをまとめたように見せたのは、連話モノの最後として面白かったが。
(でも実際は、最終回まで引っ張ったラストバトルを通して何かを得た者が誰もおらず、結局は遥か前の話の訓練からの蓄積の消化にすぎない、というダメダメな構成だったり)
結局、前作からのファンの期待には何一つ応えられずに終わってしまったシリーズな気がする。私が望んでいた「チームで頑張ってます感」も、ラストバトルが戦力分散型の個々人戦に終始してしまったことで、出ずじまいだし。
また、「脚本が設定を語ることに終始して、設定を利用したドラマを(満足に)見せてくれない」という初歩的な不満要素が充満していたのもダメだった。1期、2期がこれをクリアしていたから余計に。
(ただ、新規ファンを獲得して、商業的には成功、その層には大いに評判良いみたいで何よりだけど)
まぁ、前作ファンの期待といっても、「こんな歳食ってデカくなった“なのは”なんて“なのは”じゃねぇ!!」という、ロリータ信仰(笑)に支えられた浅はかな文句が一部にあるわけだが。
でも、そうした文句も浅はかだからと簡単に斬り捨てられるものではなく、『リリカルなのは』に求められる要素の一つには違いない。これを少しだけ深く考えてみると、なのはファンがこの作品に求めていたものは、「イノセントなもののひたむきさ」だったんじゃないかなぁ、という気がする。
つまり、ただ単に「ロリキャラ(=イノセントなもの)」が出てくるだけではダメで、そのイノセントさを活用もしくは強調するドラマ(=ひたむきさ)を見たいというのが主たる目的であり、むしろイノセントさを保証する外見的記号として子どもキャラである必要が求められた、という逆方向的な視聴欲求だったのでは?…ということ。
しかも、“イノセントなひたむきさ”というからには、その原動力である動機もナチュラルなところから発生しなければならない。これが1期では「友達になりたい」、2期では「助力になりたい」という形で、人としての純粋な思いやりの気持ちが表れていた。
ところが、3期では「仕事だから」というのが行動理由の半分近くを占めていて、これが物語のイノセントさが表れることを阻害していた。そこに、『なのは』ブランドとしての敗因があるのかもしれない。
なのフェイとはやての年齢が上がったことは、実は根本的な問題ではなく、成長して組織の側に属したことで、ナチュラルな動機が発露しにくくなり、それが部下の新レギュラーキャラにも影響して…というのが残念な点だったんだろうな。
敵の方も、1期2期同様悪意の強い連中ではないのだけど、与えられたタスクを葛藤なく坦々とこなす“お人形さん”なわけで、これもイノセントさからは遠く、「お仕事」感アリアリだし。
(ただし、『StrikerS』という作品は、イノセントなジュブナイルではなく、職業人の活躍を描くことを目的にしている節があるけど、その目的自体は否定されるべきものではない。視聴者の欲求と合わなかったというだけ)
ただ、イノセントさを出そうという制作側の努力は絶えたわけではなく、ちゃんと戦うための個人的な(ナチュラルな)動機は作られており、イノセントさを阻害する仕事色を打ち消す努力はなされていた。主要キャラの成長(イノセントさの阻害)を緩衝するエリオやキャロ、ルーテシアという年少キャラも設定されていた。
しかし、そのせいで設定語りが冗長になり、最終決戦で職場チーム全員がまとまることなく個人戦に分散して、全体的に薄味になり……
……ああ、失敗してる部分が全部繋がってる。
また、1期2期が「得るための物語」だったのに対して、3期は「取り返すための物語」になっているのも、イノセントさを求める期待にそぐわなかったのかも。
「得るための物語」とは、ゼロの状態からプラスとなるものを獲得すること。1期では、ごく平凡な設定背景しかなかったなのはと、母のために報われない行動していたフェイトが、偶然的に交わった結果、「友情」を手に入れた。2期では、戦闘というマイナス状態を運命付けられていたヴォルケンリッターの4人が、運命の呪縛から解放され、「平和な日常」を手に入れる。これらは、敵味方のキャラたちが因縁によって結びついたわけではないため、ゼロの地点からの出発となり、そこから物語を紡いでいくことが健全で建設的な印象を与え、イノセントの概念にマッチするというわけ。
これに対して、「取り返すための物語」とは、マイナスの状態をゼロに戻す作業ということになる。一応3期前半は、登場人物たちが機動6課という居場所を「得るための物語」(単純に“得る物語”あるいは“得た物語”ってだけのような気がしないではないけど)になってはいるが、それが破壊され「取り返すための物語」となった後半を経たとき、振り返って見た前半の印象は「アレって取り戻すための前座だったんだ~」という質的変容を起こし、「取り戻すための物語」に組み込まれてしまうので、結局同じ。このゼロに戻す作業を成立させるためには、登場人物にトラウマや因縁を与えることになり、物語がネガティヴな地点からの出発になってしまう。それに「取り戻す」という行為自体に「欲が強い」イメージが付随するので、イノセントの概念から外れてしまうということに。
…とまぁ、これら諸々の原因が、「何のための3期だったんだろう?」という批判が出てくる理由なんだろうな。
ただ…
ファンの期待や作品としての出来を無視し、シリーズにおけるこの作品の持つテーマを考えた場合、実に真面目に作られていることが分かる。1作ごとに取り扱うテーマの領域が広くなっていっている。
1期のテーマは「友情」だったが、2期では「家族」に焦点が当てられている。そして今期は、結構テーマがごった煮ながら、「職場」「親子」というテーマが目立っている。これら作品ごとのテーマを結ぶと、「人間関係の広がり」という矢印的な、シリーズとしてのテーマを示している。これは、シリーズを重ねることで生じる「我々の実体験としての時間的な経過」とも符合するもので、結果、テーマの意味を強めている。
ついでにいえば、教官役に回ったなのはの成長はどうも、『とらいあんぐるはーと』への原点回帰というテーマを背負ってるらしいし。
だから、テーマの進化に注目すれば、3期が作られた価値というのを見出すことが可能かもしれないな、とは思う。
…虚しいことだけど(汗)
…でも、個人的には、後半でのギン姉のいろんな意味で不遇なドラマに注目していたので、それを見れただけでも3期の価値がある、などと思ったり(汗)
しかし敵さん、「研究素材として捕獲したい」と言っときながら、なぜに洗脳して前線投入しとるんでしょうか? 目的の転換が説明されてないので、物語からの要求以外の理由を考えた時、そこだけ矛盾や無意味感がありあり。
…あー、でも、反応するってことは、グダグダ文句言ってる割に、私も釣られてるってことなんだよなー
もうちょっと中二病思考を何とかしなければ(汗