4年前、『ドラえもん』のキャストとスタッフが一新されると知ったとき、プロデューサーら辺の言葉を知って不安に思っていたことがある。
「ドラえもんは“努力・友情・希望”がテーマの作品なので、その原点に返ってリニューアルを~」という感じのコメント。
確かに『ドラえもん』はそういうテーマを含んでいる作品ではあるけれど、まるでその3本柱だけで『ドラ』が成り立っているかのような言われようで、そういう認識しか持っていない人が制作者ということは、そういう方向で『ドラ』がこれから作られていくのだ、という感じがした。
そういう方向ってのはつまり、映画版が作り上げた「ドラえもん」像の延長ということなんだと思う。
あるいは、いろいろなところで語られる、「『ドラえもん』、感動のベストエピソード」みたいな感じの話からの発想というか。
のび太は他人と比べて“見劣りする(≠ダメダメな)”部分もあるが、正義感を発揮し勇気を持ってカッコよく困難に立ち向かっていくキャラであり、しずかはそんなカッコイイのび太に常に惹かれて、困難を共にする仲間だという友情も手伝って相当好意的に見ている性格。ジャイアンは乱暴だが友情に厚い、頼りになるとってもイイ奴。スネ夫にはそうした信念はないが、ここぞという時にはのび太たちの正義感を援護して、彼らの正当性を補強する役目を受け持つ。ドラえもんの道具は、彼らのそうした長所を延ばし活かす形で使われ、ドキドキワクワクの冒険を可能にする夢のツールとして描かれる。
ここらへんは、『映画ドラえもん』の魅力として語られ、多くの人間に評価されている。
でも、注意しなければならないのは、これが『映画ドラえもん』の魅力であって、TV放送されている版の『ドラえもん』の魅力とは必ずしもイコールにならないということ。
なんで『映画ドラえもん』の登場人物がそこまでカッコイイ描かれ方をされているかといえば、「映画なんだから、普段できないような活躍の場を持たせてあげよう」という制作者側の考えというかサービス精神で、特別に魅力的に描かれているから。
ということは、普段はこうでないのが『ドラえもん』なのであり、すなわちそれが『ドラえもん』の普通なのである。
のび太はとことんまでダメな奴で、ひみつ道具で楽をしようとして自滅する自業自得な少年であり、しずかはそうしたひみつ道具にのび太が頼りたくなるほどにのび太に興味があるようには見えない高嶺の花であり、ジャイアンはのび太の天敵として襲ってくる脅威であり、スネ夫はその脅威を助長し、ストレートなジャイアンではカバーできない捻くれた部分からのび太を攻撃してくるイヤな奴であり、ドラえもんの道具は暴走して特に益ももたらすことなく害だけ撒き散らして終わる「悪夢のツール」だ。
そして、こうしたキャラたちや道具が、ナンセンスギャグであったり、時に社会派であったり、たまにホラーであったり、学術説明が多用されるSFであったり、ほんの少しのホロリとする心の交流や教訓であったり、様々なストーリーを紡いでいくバラエティ性が普段の『ドラえもん』なんだ、と主張したい。
じゃあ、そのバラエティ性……ここでは物語の重層性といってもいいかもしれないが、そうしたものの上に乗っている夢なり友情なりだけに目を向けて、底にあるものを全部無視してその表層だけをすくいとって、何か形作ろうとしても、物足りないにもほどがあるんじゃないの?
というか、ひどい場合には、底の部分にあった大事なものが欠けてスカスカな構造になった物語を見せられるのでは?
のび太は心優しく、ジャイアンは友情に厚く、人間的な負の部分がない聖人のような描かれ方をされ、ドラえもんはただただのび太に同情し道具を出すだけの「歩く四次元ポケット」としかいえない存在になり、物語はそうした小学生の聖人たち(うわぁ、矛盾が過ぎて気持ち悪いなぁ…)の善行を讃えるハッピーエンドとして終わる。
そこに人としての葛藤や弱さといった起伏あるストーリーはなく、聖人としての成長を坦々と映し出すのみ…
実際、大山ドラ末期はそれの一歩手前な感じだったので、リニューアルしたらそれがさらに推し進められて、もはや『ドラえもん』の雰囲気など何もない、努力や友情や希望が無造作に転がっているだけのナニかになってしまうのではないか、という不安はかなり現実味を帯びていた気がする。
まぁ、幸いにして出来上がってきた『リニューアル版ドラえもん』は、それとは真逆の、負の感情とそれを原動力にしたパワフルさに溢れた楽しい『ドラえもん』になっていて、ホッとしたけど。
…でも、その安心も束の間、
当初の勢いはどこへやら、今、その想像が現実のものとして訪れている気がする。
…という感じで、ケチョンケチョンに貶してやろうかと思ったが―
アレ?
今日のはオリジナルストーリーはそんなに悪くないじゃないか!(汗)