作曲家・伊福部昭さんが死去…「ゴジラ」など手掛ける
国内作曲界の大御所で、「ゴジラ」など映画音楽の作曲家としても知られる伊福部昭(いふくべ・あきら)氏が、8日午後10時23分、多臓器不全のため亡くなった。91歳。
北海道釧路市生まれ。10代前半から独学で作曲を始め、北海道大林学科在学中に作曲した管弦楽作品「日本狂詩曲」が、1935年にパリで開かれた作曲コンクール「チェレプニン賞」で第1席となり、国際的に高く評価された。
46年に東京芸大作曲科講師となり、芥川也寸志、黛敏郎さんらを育てた。また76年から11年間、東京音楽大の学長を務めた。
映画音楽は、47年に谷口千吉監督の「銀嶺の果て」を手始めに、54年、わが国初の本格的な怪獣映画「ゴジラ」を担当。後に“伊福部節”とも呼ばれる同じリズムの繰り返しを効果的に使った野性的で骨太の音楽が、作品を大いに盛り上げた。手掛けた映画音楽は300本にも上り、海外にもファンが多かった。
2003年に文化功労者。1月19日から腸閉そくのため、都内の病院に入院していた。
(読売新聞)
「ゴジラ」などの映画音楽、北海道の原野を思わせる雄大な民族色豊かな交響的作品などによって幅広い人気を持つ作曲家、伊福部昭(いふくべ・あきら)さんが8日、東京都目黒区内の病院で死去した。91歳。
北海道・釧路生まれ。北海道帝大専門部卒。林務官を務めながらアイヌ音楽や樺太のギリヤーク民族の音楽を研究、「民族の特異性を経て普遍的な人間性に至る」ことを作曲理念に据え、ほぼ独学で民族色豊かな作品を作り出した。1935(昭和10)年、「日本狂詩曲」でパリのチェレプニン賞に入選。同曲は翌年米国でも演奏され、国際的な脚光を浴びた。来日したロシア出身の作曲家、チェレプニンに近代管弦楽法を師事。「土俗的三連画」「交響曲 オホツク海」など独自の交響作品を次々に完成させた。
時代の趨勢(すうせい)にかかわりなく民族的な作曲姿勢を貫き、「交響頌偈(しょうげ) 釈迦」などを作曲。東京音楽学校講師、東京音楽大学学長などを務め、故・芥川也寸志、故・黛敏郎、松村禎三、故・石井真木、三木稔など多くの作曲家を育てた。
また、約400曲の映画音楽を作曲、なかでも54年、東宝映画「ゴジラ」では、重厚な行進曲風のテーマで強烈な印象を与え、以来「ゴジラ」シリーズの多くの音楽を担当、大きな人気を得た。
ここ数年、体調を崩していた。「ビルマの竪琴」で毎日映画コンクール音楽賞。
(毎日新聞)
単なる特撮関係のスタッフが死んだとは思って欲しくない。
劇伴音楽が「ないよりゃマシ」程度の低い扱いしかされず、いい加減な使われ方しかされなかった時代に、「音楽は映画を導く」と言って映像に合わせた作曲・演奏を行って雰囲気を作り出すといった演出レベルにまで音楽高めたのは伊福部さんの活動の御蔭だと聞いている。
御大がいなかったら、現在の「音楽による映画の場面演出」というスタイルは日本で定着しなかったかもしれない。
それにキャラクターに合わせた専用のテーマ曲を繰り返し使う「ライトモチーフ」による作曲を広めたのもこの人。
基本的に「音楽は人物ではなく場面によって変える」のが信条の人だけど、ゴジラのような中身のない架空の存在には、むしろライトモチーフによってキャラクターを決定付け、実体を与えられるとして、効果的に用いていた。
ドラえもんのBGMもこういった方式でキャラクターそれぞれにテーマBGMがあって、分かりやすく選曲されていたっけ。
アニメでよく使われる作曲方法の基礎はこの人が築いたのだ。
「サントラは映画だけのもの」と言って、耳障りの良いスコアだけを切り出して映像を無視した聴き方・使い方をする安易な風潮に苦言を呈するなど、音楽職人としての意識も高かった。
日本映画の音楽に多大な貢献をしてくれた人だった。
そろそろだとは思っていたけれど、ゴジラが引退した今、惜しい人を亡くしたものだ…
合掌…
(参考)
日経BP.jp―ライフスタイル・充実空間「クラシック、再発見」
「ゴジラ」よ永遠に~伊福部昭「SF交響ファンタジー」
http://nikkeibp.jp/style/life/joy/classic/050412_godzilla/