1954年11月3日。
『ゴジラ』第1作の公開第1日目である。
というわけで今日はゴジラの誕生日。
坂野義光監督の『ゴジラ3D』も頓挫しちゃったみたいだし、帰って来るのはいつになるのやら。
そして何の因果か、関西学院大学で自主制作特撮を観てましたよ。
監督は等身特撮ヒーロー番組のセオリーをよく分析していらっしゃる。
結果に反映されているかどうかは言わないが。
詳しくは過去の日記を参照のこと。
もう、どこが『踊る大捜査線』なんだ!?、と原形を留めないまでに変形したスピンオフドラマ。
…などと文句を垂れつつも観てしまうから、制作者側をつけ上がらせちゃうんだろうな。
先週『容疑者室井真次』を観て、そのあまりに小物の悪役然としたキャラクターを知った時には、「え~~っ!!? こんなの主人公にしてどうやってドラマ一本でっち上げるんだよ!!?」と驚いて、呆れてしまいました。
感情移入の対象になりえないキャラを主人公に立てると、ドラマとして立ち行かなくなると思うのですが。
これを回避するために考えられる方法は二つ。
灰島には主人公ではなくピエロ役を演じさせ、周辺人物に主視点を置き、灰島が事件を掻き乱すせいで翻弄させる周辺人物たちにドラマを求め、最後には灰島が負けて良かった良かった、という話にする。
灰島に挫折を味わわせることで葛藤のドラマを噴出させ、改心させることで灰島を感情移入可能なキャラクターに変貌させて物語を進行する。
今回は無難に後者を選びましたな。
でも、君塚良一が脚本書いてるくせに、エピソードの配分バランスが心地良くなかったり、提示された問題が足並み揃わずにラストに向かって進行していたり、いまいちうまくいっていない。
最後の最後には、折角改心させた灰島を完全に悪役に戻してしまうし。
(基本悪モノだけどちょっとは改心したんだぜ、みたいな描写が出てくる期待も打ち砕いてくれたからなぁ)
多分、キャラクターの同一性が維持させるように話を調節するのを重視するあまり、バランスが崩れてしまったんだろうな、とは思う。キャラ重視の『踊る』では、こういう処理のが大変だから。
ただ、灰島を改心させるイベントの配置は面白い点が多く、「あの状況から改心させるために、よくこんな巧い舞台設定を考えるよなぁ」とは感心した。
…が、もう『踊る』の出涸らしすら限界です。
不安いっぱい、実写版コナン。
原作ファンの私にとっては予想通り大いに不満ではあるが、ドラマ版金田一型の緩いサスペンスとしての脚本は可もなく不可もなく。
陣内孝則の性格と毛利のおっちゃんのキャラの互換性が高かったのが幸い。
主人公の小栗と黒川の演技は……まぁ、あんなモンでしょ(諦
新一がクール一辺倒だったのが不満ではある。新一はお笑いもできる二枚目だよ。(脚本か演技指導に原因があるが)
…しかし、予想された主人公以上にダメだったのが、目暮警部役の西村雅彦!
キャスティングからして合ってなかったけど、演技力でカバーできると信じていたのに、何、あの変な演技!? 棒読み一本調子で、やる気なさげに見えるんですが…
イヤな仕事だったんだろうか…?
それとも演技指導官が何か勘違いしてたのか…?
つい先日、大学の博物館実習で美術館に寄せてもらい、講義の一環として「彫刻磨き」に参加して、直に彫刻に触れまくるという貴重な体験をした。
あまり彫刻には興味はない私ではあるが、実際に間近で見て触ってみると結構良いモンである。
筋肉隆々とした男神像の表面を触った時のあの凹凸の感じの重量感は何とも言えん。
あと、表面をツルツルに仕上げた彫刻とか、鰐肌みたいに小さな突起だらけの彫刻とか、作家が指で練りこんだ跡が残る彫刻とか、彫刻の個性がそれぞれに出てたのも面白かったなァ。
そんなワケで、漫研でジャコメッティ展鑑賞の話が出た時に、手を挙げた私であった。
ちなみにこの時点では、“彫刻展”という情報以外のことは、ジャコメッティが如何様な人物であるかも知らなかったというテイタラクである。
美術館に行く前にちょこっと調べて知ったのは、ジャコメッティは一時期絵画を勉強していて、彫刻転向後はキュビスムやシュールレアリスムの影響を受け、細長く引き延ばされた人体彫刻を制作するようになった、ということぐらい。
…って、細長く引き延ばされた人物彫刻―
うむ、個人的には、写実系でない先鋭芸術の類は好きじゃない、というか苦手なんだけれども…
嗚呼…、展覧会と聞いて反射的に手ェ挙げるんじゃなかった…
しかしまぁ、ちゃんと人の形をしたものを作っている分、ヘンリー・ムーアよりはまだ理解できるかもしれん。
そんな不適合な態度で美術館までノコノコやってきた。
この日はちょうど講座があって、それにも足を運んだ。
内心、ラッキーだったと思っている。
何も知らないままで展示室に突っ込んでいくよりも、話を聞いて作家性を少しでも理解した上で鑑賞に臨んだ方が有意義な気がするからだ。
何よりタダだ。見ない手はない。
いやまぁ、真っ白けの状態で見ても、作家性を理解していれば絶対出てこないような思いもよらない感想が出てきたりして、それはそれで面白いとは思うが。
講座で分かったこと。
ジャコメッティはとにかく、人間の目で見えるものを形にしようとしていた、ということは飲み込めた。
「人間の全身と頭の比率はこんなんで、腕の長さはこんなもん、ここの部分は骨格に対して筋肉がこう付いている」みたいな確立された知識に基づいてデッサンをきちんと整えた、謂わば数値化された「型通りの写実」ではなく、近くにあるものは大きく、遠くにあるものは小さく見えてしまう人間の目のパース的な特性を考慮した作品作りを心がけていた、というのがジャコメッティというわけですな。
…って、この理解で本当に合ってんのか?
で、実際に彫刻をみた感想。
何と言うか………ぺらい。
彫刻のクセに厚みがないというか。
見に行っといて随分な暴言だとは思うが、しかしそれが率直な第一印象。
顔の正面のレリーフ作って、その後から背面もくっつけてみました、みたいな「板」のような感じの作品ばかり。
実際に一点、板二枚張り合わせた際にできる切れ目が像の側面中央にできてたのもあったし。
一時期キュビスムに傾倒していた割には平面的な彫刻をお作りになるようで。
ん? というか、キュビスムの影響を受けていたからこそ平面的なのか…?
顔に興味があったんだろうな、とカンバスやラフスケッチ等の顔の書き込み量を見て思った。
その証拠に、彫刻は顔以外の、例えば背中の部分とかは、粘土の塊そのままくっつけたような投げやりぶりだし。
でも、そのデコボコ感に何とも言えない重量感があって、彫刻としてこれはこれでいいかも。
また、人間の視線に基づいて作るというスタンスならば、人間が他の人間を見るときに自然と注目してしまうのは表情というか顔だから、そうした心理的な視線要因も考慮に入れているのかも。
先述の美術館でも、庭園の入り口にやたらぺらい裸婦の彫刻作品が飾ってあって、彫刻磨きボランティアの人が説明するに、この作者が最も美しいものだと考えているのは、正面から見た女性の体、そして背後から見た女性の体で、人体の横の厚みは大して重要ではないと考えているので、薄っぺらい彫刻に仕上がっているのだ、ということらしい。
ジャコメッティの作品もそれと同じ臭いが感じられる気がするのは気のせいでしょうか?
作品に触れていたら、こうした先鋭的な芸術は科学技術の向上によって発生し派生していく、という何かの論考を思い出した。
中世あたりでは、美術(Art)と技術(Craft)には明確な線引きは存在していなかった。絵描きとペンキ塗り、彫刻家と工芸品制作者、建築設計士と大工、いずれも芸術家とかサラリーマンとかいう分類で見られていたわけではなく、世の中すべての仕事持ちが依頼を受けて作品を作る職人であったわけだ。
それが言語的な定義の要求により、美術と技術は明確に区分されるようになる。
ところがそうして概念的に分離された美術は、産業革命以後の技術側の急速な進歩によってその特性を脅かされることになる。
視覚の記録装置としての役割を果たしてきた絵画は、描画を化学的・光学的な方法で自動的に済ませ、しかも鮮明に記録してしまう写真の登場により、存在意義を揺るがされる。(写真が発明された当時は、絵画も宗教画から王侯貴族の肖像画がメインになっていた時期であり、写真発明以後しばらくは肖像を目的としたものが多く撮られていたことを考えると、余計に役割がかぶっていたことも一因と言える)
工場制機械工業の発達は、美的デザインの取り入れにより、芸術家の彫刻でさえも大量に複製しえる技術を手に入れ、唯一無二の創造の希少性が価値を体系付けていた彫刻を脅かす。
技術によって芸術の現実的な存在意義が失われていく時代が近代であった。
その流れに抗う術は、技術だけでは不可能な領域を開拓し新たな付加価値を芸術に与えることであった。
例えば、現実の風景をそっくりそのまま鮮明に記録する写真に対して、「写真で三次元を“表現”することはできまい」と展開して見せたキュビスムであったり、「現実をそのまま写すだけが能じゃない」とばかりに図形的に絵を表現した抽象絵画であったり、また工場制大量生産技術に対抗するのは、「工場製品では時間を表現することはできまい」として固定された彫刻に四次元的な要素を与えた未来派であったり。
ジャコメッティもそうした時代の意識を引き継ぐ形で、視覚を純正化させてみせた芸術家なのかなァ、と少し思った。